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日伯論談=テーマ「日伯経済交流」=第36回=岸和田仁=前ニチレイサンパウロ社長=ノルデスチ灌漑農業の現場から考える

2010年2月6日付け

 「俺の名はセヴェリーノ 名字などない」という書き出しの詩劇『セヴェリーノの死と生』をジョアン・カブラル・デ・メロ・ネトが発表したのは1955年であったが、ノルデスチのヘチランチ(旱魃難民)を主人公とする、この長編叙事詩は後に映画化、テレビドラマ化されてブラジル国民にあらためてセッカ(旱魃)の悲惨さを印象付けることになった。
 周知の如く、ノルデスチの最奥地セルタゥンは、サボテンや有棘潅木で覆われた熱帯乾燥地帯で、年間降雨量は400から700ミリメートル程度でしかなく、セッカに繰り返し痛めつけられてきた。
 最悪といわれる1877から79年のセッカでは、飢えと疫病で50万人近い死者が出たため、多くの住民がアマゾン奥地へ移住しセリンゲイロ(ゴム採取労働者)になった。その後も周期的なセッカ災害が、多くの罹災者を生み出していく。例えば、1950年代に、名著『飢えの地理学』並びに『飢えの地政学』でブラジルと世界の飢餓問題を鋭く分析したジョズエ・デ・カストロ教授も、このヘチランチの子であった。
 セッカ対策を国家的問題と公式に認定したのは、1880年代の帝政であったが、1936年の「Poligono das Secas(旱魃多角形地帯法)」成立、59年SUDENE(東北伯開発庁)創設など歴代政権による様々な試行錯誤を経て「サンフランシスコ河中流域灌漑基本プラン」が67年に策定される。「国家統合の河」とも呼ばれたサンフランシスコ河の恵みの水(と年間3500時間以上という日照エネルギー)を活用する発想がようやく具体化、68年のベベドウロ計画を嚆矢として、灌漑農業プロジェクトが次々と立案され、実行されていく。
 78年に完成したソブラディーニョ湖・ダムは、貯水量340億トン、総面積は日本の瀬戸内海とほぼ同じ、という巨大なものであったが、80年代以降、眼に見えるかたちで社会経済的な効果をもたらし始める。
 河をはさんでペルナンブーコ側がペトロリーナ、バイーア側がジュアゼイロという双子都市(両市の合計人口、現在40万以上)を中心として、灌漑農業、関連農産加工業、関連商業が相乗的に拡大・成長し、ブラジルのなかでも貧しさを競っていた地域に一つの経済圏が出現することとなったのである。
 いくつか数値を列記しておけば、マンゴは91年の植付面積3220ヘクタールが2005年には1万8千ヘクタールへ、その間の収穫量は8千トンから27万トンへ増加している。ブドウは91年2620ヘクタール、3万2千トンから05年1万ヘクタール、24万トンへ。
 05年のその他果実のデータは、バナナ5400ヘクタール、16万トン、ゴイアバ3500ヘクタール、11万2千トン、ココヤシ1万2千ヘクタール、5億7千600万個、アセロラ700ヘクタール、1万8千トン、となっている。
 更に、05年の果物輸出データをみれば、ブラジル全体のマンゴ輸出量11万3758トンの92%、ブドウ輸出量5万1213トンの95%が、このサンフランシスコ河中流域から出荷されている。また、ワイナリーも現在7工場が稼動しており、セルタゥン産ワインが国際的にも受容されている。
 こうした実績を生み出しえたのは、70年代から同地域で農業開発に取り組んできた農業関係者の〃血と汗〃であるが、ここにも日系人の苦闘の歴史があったことを、改めて確認しておきたい。
 マンゴの新品種導入、開花時期調整ノウハウ、ブドウでは強制剪定(による収穫時期調整)や施肥の特別ノウハウ、さらには灌漑農業に併発する塩害を防止するための暗渠排水路ノウハウなど、その多くは日系入植者が自力更生に近いかたちで編み出したものといってよい。
 初期の段階では外国や南伯の農業技術の機械的な適用が見事に失敗し、その苦い経験からセルタゥンの自然条件、土壌条件に合致した農業技術を見つけ出していったのだ。現在百数十家族の日系人が、世代交代を経ながらこの灌漑農業前線で活躍している。
 この灌漑農業開発は一つの成功事例といってよいだろうが、全てがバラ色では決してない。むしろ、新しく出現した問題・課題への挑戦が既に始まっている。マンゴとブドウへの過度な集中、過剰生産、市場価格の下落、為替高による輸出のコスト割れ。こうした現実を前にして栽培果樹の伐採・代替、耕作地の放棄もおきている。
 対応策として、栽培果樹の多様化、転換や有機農業の拡充はもちろん、熱帯雨林気候地域におけるアグロフォーレストリー農法に対応するような、乾燥地域での環境配慮型農法の模索もなされているが、「総合的な灌漑農業再生戦略」が練られねばならない。
 この文脈において、日本人、日系人問わず、「カネのある人(または企業、国)はカネを、知恵のある人は知恵を」出していけば、サンフランシスコ河中流域は単なる双方向の経済協力を超えた、学際的な協力の〃面白い実験場〃になる、と筆者は考えている。

岸和田仁(きしわだ・ひとし)

 東京都出身。前ニチレイサンパウロ(有)社長。(社)日本ブラジル中央協会理事。ブラジル駐在のべ19年(79年―95年、2006年―09年)、駐在地はレシーフェ、ペトロリーナ、サンパウロなど。週末ライターとしても活躍の幅を広げ、月刊ピンドラーマで『ブラジル版百人一語』連載中。著書『熱帯の多人種主義社会』(2005年、つげ書房新社)。57歳。

※この寄稿は(社)日本ブラジル中央協会の協力により実現しました。

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