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コラム 樹海

ニッケイ新聞 2010年4月2日付け

 『文藝春秋』2月号に堺屋太一の移民導入論がでていたが、読み終えて少々物足りない感じを受けた。現場を見ていない人がひねった、机上の空論のような印象か。移民を受け入れることに関する実感がこもっていない。移民はどのようにしてその国の人間になっていくのかという部分が空っぽなのだ▼移民の「送り出し」と「受け入れ」はコインの裏表だ。しかるに、日本における移民大量導入の議論がどこか空回りしたものになっているのは、送り出した過去を、歴史的にきちんと総括していないからではないか。日本移民がブラジルでどのような痛みを感じてきたかを、幅広い日本国民が認知していれば、受け入れる際の苦労も想像でき、どう受け入れるべきかという具体的な議論につながる▼送り出し側はどんな社会的な事情があり、そこから送り出される人々が日本に行くことで生じるメリットは金だけなのか。世界第2位の経済大国の地位を中国に奪われつつある今、日本はいつまでも「一等国」とは言っていられない時代になりつつある▼しかも、移民は「労働力」である以前に人間だ。人口が減ると消費が減って産業が衰退するとか議論する時の、単なる統計上の数字ではない。移民がその国に根付くには最低でも3世代かかる。日本移民がそれを証明している。日本政府は100年がかりの長期的なビジョンで移民政策を考えているのか。移民一世に過度の日本語能力を求め、必要以上の同化圧力をかけていないか▼まずは送り出した過去を見つめ、日本側のメリットだけでなく、移民側にとってのそれも総合的に論じてこその新しい移民政策ではないか。(深)

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