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学移連創立55周年=海外雄飛を夢見て=羽ばたいた学生たち=連載《7》=第6次調査団の日下野さん=ブラジルを夢見続けて

ニッケイ新聞 2010年6月17日付け

 日下野良武さん(66、熊本、熊本商科大)=サンパウロ市在住=とブラジルとの出会いは偶然だった。中学生の時、同級生がプールに電池で動く模型の船を浮かべていた。それが全長1メートルほどの「ぶらじる丸」。そこからブラジルを目指す人生が始まった。中学、高校時代の先生から「こんな狭い日本に居てどうするんだ。セルバス、パンパは広かぞー。行ってみてみぃ!」と聞かされたことも影響した。
 熊本商科大に1962年に入学。熊商大の前進は東洋語学専門学校だったこともあり、附属機関として中南米事情研究所という研究機関があり、よく出入りしていた。「ブラジル関係の本は特に少なくてね。来てはラテンのレコード聴いたり、ブラジル関係の人がくると話をしてもらっていた」と当時を振り返る。
 そんなとき、63年に第1回県費留学生が同大に入学した。これがブラジル人との初めての接触だった。仲良くなり、あちこち連れて回り一緒に飲み、ブラジルの話を聞いた。同研究所で彼とは共著「ブラジル工業の進展」を執筆するほど親密になった。
 ある日、研究所から「君たちはスペイン語が出来るし、何かサークルを作ったら」と言われ、中南米研究会が発足。肉付けがどんどんされていき、〃宿命〃だと感じた。
 自分のことを「性格上、人がどんなに説明しても五感で体感しないと納得しない男」と評する。それでも1年の時は理屈ばかり言っていた。そこで、自転車で九州一周旅行をし「俺は理屈だけではないぞ」と自分なりに証明してみせた。
 とにかくブラジルを見たかった。当時、サークルには40人ほど会員がいた。「何か無いかな」と過ごしていると、同じ九州の鹿児島大学・中南米研究会の新田栄六氏(第3次南米派遣)、宮本修氏(第5次南米派遣)らが学移連へ熱心に勧誘にきて、加盟を決め、また一歩ブラジルが近づいた。
 鹿児島に出向いた時には学生寮に泊まり、宮本さんから「飲め!」と出されたのが芋焼酎のお湯割り。「美味しくて、あの時の気持ちよさといったらなかった」と語る。
 学移連について、「エネルギーの固まりで馬鹿の集まり。理屈をこねる人もいたが、全国の学生と触れ合えたことが魅力だった」とし、全国合宿では「農大と拓大が怖かった。どこでも〃押忍〃の声が聞こえたよ。それにワーク(実地の農作業)では、彼らの植林を進める馬力の前には太刀打ち出来なかった」と思い出を語る。
 合宿は多いときで200人を数え、活況だった。「高度経済成長時代にブラジルなんて、へそ曲がりだったかな」と語るが、「派遣団として絶対に行ってやる」と心に決めていた。
 拓殖大で行われた第6次南米調査団の試験では50人が試験を受け、合格したのは10人。筆記試験と討論で、20キロのバーベルを担ぐ体力測定などもあり、拓大や農大生は片手で軽々あげていた。「何だかんだ言っても体力、チャリ(自転車)こいだり、腕立て伏せして鍛えたよ」と力こぶを作ってみせた。
 合格後は大学から異例の補助金が出た。教授会では「これ以降、公の試験を経て渡航する時には10万円を援助する」と決まったようで、大学の期待を一身に背負い65年6月、第6次南米学生実習調査団・商業部門としてリオの「IHIブラジル」へ派遣され、テーマ「一日系企業の歩み」のもと事務仕事を中心に研修をした。
 帰りの船では団員みんなで反省会。1人2時間くらい話し、「青二才の学生の身分で、世間知らずだと思った。派遣先では駐在員の努力やパイオニア精神が強く、会社を興すぞという迫力があった。人生は甘くないな」と感じながら日本へ帰国した。
 日下野さんは「あれから『不惜身命』という言葉が好きになったよ。失敗を恐れず、体力と頭が続く限り、この精神で生きていきたい」と目を輝かせた。(つづく、金剛仙太郎記者)

写真=鹿児島・霧島での春期合宿(1964年4月1~7日)前列左から5番目が日下野さん(日下野良武さん提供)

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