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学移連創立55周年=海外雄飛を夢見て=羽ばたいた学生たち=連載《9》=「移住」から「国際協力」へ=移民70周年で図書寄贈

ニッケイ新聞 2010年6月22日付け

 1975年、学移連は紆余曲折を経ながらも20周年を迎えた。それを記念して6月21、22日に東京で式典が開催され、NHKの三木友直氏による講演会「二十一世紀の国、ブラジル」、移住関係者、有識者によるシンポジウム「国際協力時代における新しい移住のあり方」、そして第5次海外学生総合実習調査団の帰国報告会が行われた。
 一方でこの年、カナダ国内の失業問題により、カナダ派遣は中止された。派遣地域の多様性は見られてきたが、同時に学移連内でも移住から国際協力がテーマに上がり始めていた。
 ちょうど同年、海外移住事業団が国際協力事業団と改称。記念誌の中で岡野護氏(亜細亜大)はこの時のことを、「学移連は『移住を研究、実践する』団体として、その母体を失ってしまった」と述べている。社会全体の移住への関心度が低くなってきていた。
 さらに当時、本部で書記局長も務めていた岡野氏は、「理念を打ち出して『連盟員について来い!』、と言っても仕方がなかった。そこで社会的にアピールする花火、つまり事業を打ち上げ、1つの大きな目標を作り、連盟員と学移連との関わりをもたせた」と述べている。当時(73年)の加盟校は東北・北海道支部、関西支部、関東支部、九州支部、本部直轄を合わせて29校で、新入生対象のキャンプでは100人ほど集まっていた。
 世の中が移住から国際協力になっている時に、第22期の会田出委員長(拓大)、そして第23期の石井要委員長(農大)は、総会で共に学移連の目的を移住とすると明言した。すると九州支部など脱退校が出て大幅に加盟校は減少し、残ったのは東京農大、広島短期大、日本大、琉球大など少数になった。
 日本人ブラジル移住70周年の78年3月、学移連もそれに合わせ記念事業を企画し、書籍寄贈活動を行った。この活動は三重県の日本フロンティアセンターから16日間かけて、東京にある国際協力事業団本部まで、第25期の二宮憲将委員長ら4人がキャラバン隊を組み、各県の新聞社や県庁、テレビ・ラジオ局などに書籍の寄付を呼びかけるものだった。
 この活動により約1万5千冊が集まり、同年7月特別短期派遣の3人と後藤連一顧問会会長によりカンピーナス日本語学校やピニャール移住地など7カ所に寄贈された。さらに翌79年に約4万冊、81年にはボリビアのラパス日本人会やオキナワ、サンファン両移住地へ約1万2千冊の寄贈が行われ、高い評価を得た。
 80年の第28期からは役員不足と卒業年次でも役員を務められることから、今までの1年から半年で1期の任期となった。この頃から学移連の基本方針の中には「国際協力」の言葉が入り、また活動の中心ともなっていった。当時の主な活動は公開講座や講演会で、国際協力に携わる専門家を招いて行われるようになった。さらに自主ゼミでは杉野忠夫初代顧問会会長の著書「海外拓殖の理論と教育」をテキストに行われたが、連盟員の参加は消極的だった。
 83年の32~34、38期と役員をした福井真司さん(48、東京農大、総合第14次)=サンパウロ市在住=は、「総会では学生の代わりに『委任状』が集まった。合宿は役員と数人の派遣団員のみで、一般の連盟員の参加は少なかった。当時は連盟本部と各大学の距離感があった」と振り返る。
 当時は海外旅行が個人のレベルで行ける時代になり、国際協力事業団など派遣機関が増えたことなどから、学移連の制度を利用する学生は少数だった。第13、14次海外学生総合実習調査団の長期派遣は各1人、他は短期派遣(2~3カ月)。しかし、2年後(85年)の30周年に向け、「南アメリカ縦走キャラバン」という、新たな動きが出てきていた。(つづく、金剛仙太郎記者)

写真=移民70周年記念事業キャンペーン歩行活動(東京~三重550キロ)(1978年3月)(日本学生海外移住連盟創立50周年記念・記録写真集より)

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