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「あそこが第二の故郷」=第一昭和植民地郷土会

ニッケイ新聞 2010年11月23日付け

 まず顔を見合わせる、でも分らない。次に名乗って「ああっ!」とようやく気付き抱き合う。そんな光景が次から次へと見られた。マリリア市から25キロの地点にあった第一昭和植民地郷土会が10月31日、聖市の老ク連会館で行なわれ、30人余りが集まってじっくりと旧交を温めた。
 「最盛期の昭和10年ごろには150家族ぐらいの日本人がいた」と台川照充さん(84、岡山県)は懐かしそうにいう。「カフェが主作だが、棉とか米も。少ない人で5アルケール、長瀬明さんなんかは65アルケールも持っていた」
 「ブラジルは木の葉を集めるようにお金が集まるという宣伝だった」と笑う。1935年に渡伯し、最初からこの植民地に入植した。伯父さんの構成家族として役場で仕事をしていた父を誘った。「3年で帰るから学校なんか行く必要ないと父にいわれ、僕は学校に行かなかった」とふり返る。
 戦争中は食料、石油、塩なども不足した。「養蚕やっている人はハイセンと呼ばれて、小屋を焼かれた人もたくさんいる」という。植民地のその後に関して「2~3年前まで2家族ぐらい残っていたが、今はもう誰もいなくなったようだ」との消息を伝える。
 32年に渡伯した西方一男さん(85、長野県)は、「日本語学校行ってない。母が夜教えてくれた」という。東京の白洋舎で働いていた父は昭和不況の煽りで首になり、畑仕事もしたことないのに渡伯を決めた。41年にはツッパン近くのバンデイランテス植民地に移ったが、「やっぱり一番思い出が多いのはここ。10歳から20歳ぐらいまで居たから。でも仕事、仕事で遊んだ記憶ないけどね」と笑った。
 33年に渡伯した野界照子さん(82、北海道)も「毎年この会を楽しみにしてる」と目を細める。「植民地の小学校は日本人の子供ばっかりだったから、ブラジル人が2~3人入ってきてもいじめるからすぐに辞めてった。だから私らもポルトゲースぜんぜん憶えなかったんですよ」
 上村美恵子さん(80、二世)もその話を聞いてうなずき、「視学が来ると、みんなカフェザルに逃げ込んだ。教科書を箱につめて地面に埋めたりした」と当時の緊迫した様子を説明する。「戦争始まる前に日本語教育が禁止になったでしょ。そしたら父が戦争終わったら日本に帰るんだから、日本語学校がないならブラジル学校なんかなおさら行く必要ないって。だから日本語もポ語もやってないんですよ」
 佐藤宏次さん(87、二世)は47年の戦後初の選挙の時、同植民地の青年会や青年処女会の二世40人ほどを連れてマリリアまで登録手続きに行ったことが思い出深いという。「マリリア市長選挙では、僕らが応援した候補が3票差で勝った。みんな喜んだよ。40票は大きいって」と明かす。
 郷土会世話人の岡本正三さん(81、和歌山県)は「元々は末永さんら3人が発起人で、毎年やってもう26回ぐらいになります。多いときは60人ぐらい集まったんですよ」と思い出す。「みんな5~6歳で来ているから、日本のこと良く知らんですよ。第一昭和で育った仲間、あそこが第二のふるさとですよ」。
 三々五々帰る人たちの中には「元気でね、また来年ね」と言いながら抱き合う姿が見られた。

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