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「アンドウ・ゼンパチ」=連載にあたって=(下)

ニッケイ新聞 2011年1月25日付け

 この内容では、当時まだカッタ派の多かった地方では物議を醸すこともなきにしもあらず、と考えた私は、ペンネームで掲載してくれるように依頼した。ところが、何の手違いか、本名のままで記事が出た。
 ある日、アンドウさんは相変わらず自弁で新しい地方にキャンペーンに出向き、講演を始めた。
 ところが、やおら聴衆の一人が立ち上がり、「あんたの仲間には宮尾という男がいるだろう。その男がどんなことを新聞に書いているか知らないのか。そんな奴のいるあんたらの仲間の作った教科書など、誰が使うと思うか」と声高に非難を始めた。
 この地方の人は、その新聞の購読者が多いと見え、発言者に雷同して口々に声を上げ出した。ゼンパチさんは講演を続けることが出来ないどころか、あやうく皆に袋叩きにされそうになり、ほうほうの体で逃げ帰ってきたということだ。
 何が何だかわからず事件に巻き込まれてしまったゼンパチさんに、私は事の経緯を知らせて謝ると、苦笑いしただけで、別に怒りもしなかった。 新しいコロニア向け教科書作成一つにしても、対ブラジル政府への働きかけと同時に、時には身の危険を冒してまでも、コロニア内部の使用者側の理解説得が必要であったりして、何の障害もなく、ことがスムーズに運んだわけではなかったのである。
 何一つ自分の利益になるわけでもないのに、日系コロニアの向上発展を考え、他に先駆けんことを提言、進んで身を挺してこれを実施に移してことを行なったアンドウ・ゼンパチなる人は、やっぱり立派な人であった、と言えるのではないか。
 古杉君の記録によると、日本語教育会議というが正式に発足したのは1957年8月。理事にはアンドウさんと私だけが現役の先生ではなく、残り4人は現役第一線の著名な日本語の先生となっている。 
 その後、教科書編纂委員会の先生たちの手で、第一期初等用八巻(61年)、第二期中等用第四巻(64年)が完成刊行された。
 72年にはブラジルの教育基本法も改正され、外国語教育も大幅に緩和されるようになった。こうしてアンドウさんの努力は実ったのである。
 一見したところ、謹厳実直な固い感じの人でもあるが、結構くだけた面白い人でもあった。

 —食い詰め者が集まって、食うや食わずの弁証法—

 多分この歌詞もゼンパチさんが作ったものだろうが、土曜会の会歌みたいなものがあり、炭鉱節のフシで歌うのだが、フェスタがあると、ゼンパチさんはよく鉢巻きなどして、茶碗を箸で叩いて拍子を取りながらこの歌を歌った。
 そのほかにも色々な歌を楽しそうに歌ったりしていたが、どうもゼンパチさんの歌は何を歌っても同じフシで繰り返しているように聞こえた。

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