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イビウナ庵便り=中村勉の時事随筆=11年3月21日=支援の手

ニッケイ新聞 2011年3月23日付け

 3.11 Catastrophe(東北関東大災害)発生当初、多くの支援の手が差し延べられていたが、被災地は心温まる手を直ちに受入れることは出来ず、徐々に選別的に受入れると報じられた。
 曰く:
1.支援物資を勝手に送ってこられては、却って仕分けに手間取り、必要な物を必要な人々に届けられなくなる。少なくとも、余計手間取る。
2.運送手段の確保がなければ、折角の支援物資も被災者の許には届けられず、混乱する。
3.ボランティアで援助に押しかけられても、自分の必要ロジスティック持参でなければ、却って手足まといになり、ボランティア達が援助者どころか被援助者になってしまう。
 先の神戸・淡路島地震災害ではドッと押しかけたボランティア達が、「水は何処だ?!」「トイレがない、何処で用を足せばよいのか!」「何処で何をすればよいのか!」と、警察や自衛隊の活動を妨げ、大混乱を起こした。その教訓だ。善意は美しいが、「何とか助けになりたい」だけでは駄目で、「結果がでなければ」却って重荷になる、—被災地での或る医者の言葉だ。その後、プロの救助隊が、支援の手の組織化を計画、申込者を専門別に整理しニーズ毎に当はめ、logisticsを整えた上で、訓練されたプロを隊長に百人隊(ローマの組織が模範)を数十部隊組織し、それぞれの被災地に送り込む、その準備に更に1週間は掛かるということだった。こうした背景もあり、外国メディアは日本人の規律・秩序を尊ぶ文化を褒めた。しかし、事態はそう単純なものではなかった。
 事実、各地から「できることなら何でもやるから手伝わせて欲しい」という申出が殺到していた、と同時に被災地からも「手不足だ、誰でもいいから、すぐ手伝いに来て欲しい」と言う要望が聞えてきた。ギクシャクとした支援が続く中で体制作りが進行する様子をNHKが伝えていた。支援の手も「自分で出来ることを提案する」、例之「拙宅1家族引受けます。雨風は凌げます」等々と多様化していった。住いのシェアリングは、復旧が長期化することを考慮すると、効果的な援助になると思われる(それ故に、援助の長期プランが必要だが)。この経緯から、援助の手の条件が見えてきた、「援助サービス>同コスト」だ。問題はコストだ。援助の手も衣食住する、トイレも使う、場所もとる、風呂にも入る、風邪も引く、休養・就眠の為の場所と寝具も必要だ。支援コストが被災者・救助隊の必需品を喰うところに問題がある。即ち、先ずサービス(S)>コスト(C)を確認し、(S-C)の値の最大化を試みなければならない。費用vs効果の問題だ。それには経験豊富なプロの手が要る。
 19/03には、双葉町住民が役場ごとさいたま市に避難するという広域避難(Exodus)も始まった。3.11災害は、原発事故によって、前例のない災害になった。目に見えない放射能との闘いが加わったのだ。政府や東電が安全区域を設ける一方、福島第一原発から20~30Kmの間は安全だと広報する中で、支援物資の運送を拒否する業者が現れた。これを風評被害だと片付ける丈では済まなくなり、原発事故地に近い福島県民は故郷で復興を図る道を閉ざされた。こうして、広域避難が始まったのである。三宅島火山災害時の経験が生かされた。暫くすると都道府県毎の避難受入れ情報のtelopが画面(NHK)に流れてきた。連絡電話番号も記されており、避難側と受入れ側の打合せが出来れば、取決めた日時に、受入れ側が迎えに被災地に出向く仕組みになっている。避難民は、将来はたして帰郷出来るかどうか? 仮に可能性があっても、何時になるやら誰も明言できないだろう。この点が三宅島の場合と異なる。NHKのTVが映し出した双葉町の垂れ幕には「原発で明るい未来を!」とあった。核爆弾(戦争用)でなく原発(平和利用)である処が何とも恨めしい。我々の生活向上のエネルギー確保に懸命で働いてきた人々が今、炉心溶融の危機と、文字通り命懸けで、多くの市民の命を救う為に戦っている。その現実が、何とも皮肉で哀しい。
 先週末日本政府は、福島原発事故の危険度は29/03/1979のスリーマイルス島原発事故並(Level 5)に達したと発表、日本原発の将来や如何? と危惧される。米国は3M以来原子炉を造っていない。核戦争による地球滅亡を描いたNevil Shute著「渚にて」(1957)がBest Sellerになり、映画にもなった(1959)。それがThree Milesの恐怖を一層煽った。3.11は津波被害もさることながら、更に心配なのはNuclear Crisis(核の危機)だ。多くの外国人が空港に殺到し国際線は混雑した。外国人に混じって日本人もいた。彼等に「国難を見限って逃亡するのか、非国民め!」と誹謗する者もいた。万一放射能汚染が現実となったら、少なくとも子供達だけは「渚にて」から守らねばならない、という思いが頭を過ぎった。そうならないことを祈るが、その時には、海外在住の我々を含めて、各自が出来ることをするしかない。私は、偶々ブラジルの田舎に住む一老人にすぎないが、大袈裟でなく、日本核難民のブラジル受入れも近い将来あり得るのではないかと懸念した。
 復興には少なくとも4~5年は掛かるだろう。大人は日本にとどまり復興活動に参加すればよいが、子供達はどうなるのだろう。未発表だが、一瞬に孤児になった子供も少なくない、と聞く。
 その支援活動はどうなるのだろうか? 3.11被災者情報に孤児に関するものをまだ見ていない。
 それにしても、こういう事態になって改めて認識したのは、我々が如何に電力の恩恵を普段受け、如何に電力漬けになっていたのか、ということだ。又、日本の電力の30~35%は原発に頼っているにも拘わらず、原発とはどういうものかの基礎知識もなかった。惨状を見ていると、少なくとも暫くは原発の新規増設は望むべくもないのみならず、福島原発も廃棄されるだろうから、原発賛成・反対に関係なく、それ相当の節電を覚悟しなければならなくなる。万物の元はエネルギーだから、ライフスタイルの変革も避けられないのは言うまでもない。やるべきことは山ほどある。
 そんなことをいろいろ考えさせられた10日間だった。

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