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俳誌『蜂鳥』=一月も休まず25年刊行=誌友に感謝し、発展誓う=久子主宰「ご協力のお蔭」

ニッケイ新聞 2011年3月23日付け

 「すべてみなさんのご協力のおかげです」—。伝統ある俳誌『蜂鳥』創刊25周年300号記念祝賀会が12日午前、サンパウロ市の文協展示室で行われ、誌友ら約100人が祝賀に参じ、喜びを分かち合った。ブラジル俳句界の先達である佐藤念腹師が1979年に亡くなった後、故富重かずま主宰は86年に『蜂鳥』を創刊し、以来一月も休むことなく発刊を続け、83年から日伯毎日新聞俳壇選者(現ニッケイ新聞選者)となり、5年前に同主宰が亡くなり廃刊の危機に瀕しつつも、妻久子さんが引き継いで今日に至っている。

 近藤玖仁子さん(くにこ)、篠崎路子さんの司会のもと、池田童夢さんが開会の挨拶をし、富重久子主宰がマイクの前に立った。「5年前かずまが亡くなった時うつうつとした日々を過ごし、みなさまから有難い言葉を頂いたおかげで今日があります」と誌友に感謝の言葉を捧げた。正面には25年間に発刊された全300号、富重かずまさんの句集などと共に在りし日の写真が飾られた。
 来賓の星野瞳さん(砂丘句会選者、ニッケイ俳壇選者)は「僕は60数年余り俳句に生涯を捧げてきたが、今のコロニアで蜂鳥は最高の俳誌であると言い切れる。並々ならぬ努力とスタッフに恵まれた立派な仕事」と賞賛した。星野さんは同じ年に俳誌『子雷』(こがみなり)を発刊したが眼疾のために155号で廃刊したことを振り返り、「心からお祝い申し上げます」と語った。
 続いて栢野桂山さん(老人クラブ、のうそん選者)は17歳頃に作句した「蜂鳥」という作品を披露し、「多くの新しい誌友を得てますます発展している」と褒め称えた。その他、浜照夫さん(文協文芸委員長)、日系文学の中田みちよ編集長らが挨拶した。
 誌友代表として、創刊時から参加する松井明子さんは「地方の方々の協力、優しさがこの大事業を達成させた。後輩育成、新人発掘に尽力されてきた久子先生にも句集を出して欲しい」と語り、今回を機に隔月刊となるが「さらに充実した内容になるでしょう」と締め括った。
 同じく加藤淑子さんも「この感激は言語に絶するものがある」とし、「わずか17文字の宇宙に心を映す」芸術である俳句に惹かれて以来、それまでの趣味だったゴルフやマージャンを断ち切って、この14年間打ち込んできた誌友生活を振り返った。
 後援会代表として富重敏郎さん(長男)が「父は50年前に移住した時から蜂鳥が好きだった」と語り、当真千鶴さん(長女)も「俳句の言葉はダイヤモンド、誌友あっての俳誌だ」と感謝し、記念品と花束が創刊時からの誌友(佐藤孝子、佐藤節子、細梅鶴孫、須賀吐句志、酒井祥造、佃千鶴子、山本英峯子、池田童夢)らに贈られた。
 返礼にたった佐藤孝子さんは「25年間一度も休まずに投句してきた。感無量です」と瞳を潤ませながら語った。
 さらに久子主宰から「ほとんど毎日のように手伝ってくれたみなさんです」と浜照夫、栢野桂山、池田童夢、広田ユキ、串間いつえ各氏に功労賞の記念品などが渡された。最後に誌友一同を代表して畠山てるえさんが久子主宰に花束を贈った。昼食の後は、約150句の投句が披講され、赤とんぼと故郷を合唱して閉会した。
 来賓の宮尾進人文研顧問は取材に対し、「俳句短歌などの短詩系の世界があったから、日本移民は欧州移民に比べて文化的に豊かになった。これがなければ戦前の日系社会は随分カボクロ化が進んでいたのでは」と語り、星野さんも「僕がペルーに言った時、川柳が一人だけで俳句は誰もいなかった」と頷いていた。

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