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特別寄稿=」私のモラエス=「サウダーデ」を巡る移民側からの随想=中田みちよ=(中)

ニッケイ新聞 2011年7月14日付け

 「・・・(前略)この通り(作者註・伊賀町)は、この町の一方の端から他方の端へと走って内陸部から市街地を区切る天然の境界をなしている小山のすぐ近くにあり、この小山のすそを巡っている徳島は、実際、時をへて黒ずんだ木と黒い屋根瓦でできた家がごちゃごちゃと帯のように細長く立ち並ぶ、山と平地の間に広がった町である。
 伊賀町は惰眠をむさぼる文字通りの田舎の通りで、両側にみすぼらしい家と手入れの悪い畑が並んでいる」
 ここに金髪もじゃもじゃの老人を立たせてみる。なんと素っ頓狂なことか。
 そして、このくだりを読むと、そこに髣髴してくるのは、ポルトガル人ではなく、田舎道をゾウリ履きで歩く日系老移民の姿でもある。
 ここブラジルの地では日本人こそがガイジンで、「行け行け、海越えて!」の夢が砕けちって、場末の木賃宿に身をおく孤老も少なくない。口からもれるのは、わけのわからい日本語のかけらであり、郷里の地名であろう。
 そう考えると、モラエスの寂寥が分かるような気がする。神戸のポルトガル領事時代に芸者だったおヨネを身請けして同棲を始め、ヨネの死亡後は徳島に移住し、ヨネの姪の19歳のコハルと同棲をはじめるときのモラエスは59歳である。土地のものには女好きのケトウそのものにしか映らなかったであろう。
 「外国人の中でひどく重苦しい孤独のうちに暮らしている。これは一人きりで暮らしているのと同じだ・・・」
 初期の神戸生活のなかで友人あてに書かれた書簡である。体の中を通りぬける風は、同胞に囲まれてぬくぬく暮らしている日本人には、決して読むことができない行間であろう。
 徳島にモラエスが住み着いたのは1912年。さきの書簡が記されたのが1919年。日露戦争に疲弊した日本人が、新天地を求めてブラジルに移民してきたのが1908年だから、それから憶測しても当時の暮らしぶりには想像がつく。
 隣人の朝食がふかしたサツマイモだという描写があり、自分の犬にろくにえさも与えず世話もしない飼い主など、暗くて貧しかった日本の片田舎が活写されている。
 岡村はモラエスが徳島を隠遁の地に選んだ理由として、おヨネがいたのは言をまたないが、物価が安く、貯金の利子だけで食べていける。西洋人がいない徳島では体面をつくろわなくてもよいというファクターがあったと観察している。
 神戸のポルトガル領事が心配して夫婦で訪れたりしているが、モラエスは徳島を離れなかった。「気が狂ってしまった」という風評が出たのもこの頃である。
 祖父母、両親がいとこ同士で結婚をくりかえしたために、体質的に鬱病のケがあるという自覚をもっていた。これは姉や妹にもあった性癖で、孤独癖や社会に嫌悪感を抱く素地がととのっていたことになる。
 モラエスは、日常生活をずいぶんこまごまと知人友人宛に書き送り、「ポルトガル商報」にも「日本通信」などを寄稿しているが、心のうちを明かすことができたのはこんな紀行文だけであったと推察するのは、私も異国に生活圏をおく移民だからか。
 当時の状況からして、ヨネもコハルも学校教育を受けているとは考えられず、「オイシイ」とか「アツイ」とかという日常茶飯事のことしか語られなかったであろうから、寂寥感は書くことによってしか埋められなかったはずである。いや書くことが癒しだったのではないか。
 アンジェロ・ペレイラが共著で「ヴェンセスラウ・デ・モラエスの恋」という作品を1937年に発表しているが、これはモラエスの女性遍歴を主題に扱っているようである。
 年譜をおうと、常に女性が傍らにいるのも事実。23歳ころにあったのはリスボンの8歳年上の人妻イザベル。夫が中枢神経を侵されて寝たきりの病人。
 この関係はもともと家系的に神経症の傾向があるモラエスを悪化させ、10年間赴任したモザンビークから2度療養のため帰国。イザベルとごたごたをつづけながら、モザンビークではアルシという女性ができたという。
 つぎの赴任地マカオでは、父を英国人に母を中国人にもつ亜珍と2児をもうけた。彼女が15歳のときにモラエスは亜珍を買って小さな家に住まわせたのである。
 後には認知したものの、公的にはずっと独身で通し、日本にわたってからも養育費を送るという形でけりをつけ、死んだときには財産の一部を遺贈したそうである。
 1898年から日本に在住。1900年、大阪のくるわ芸者だったおヨネを落籍。同棲を始める。時にヨネは25歳。
 徳島でその死後の身の回りの世話は19歳のコハルが続ける。ヨネのいとこである。むろん、世話には床の生活もふくまれている。精神的な交流など考えられないから、あくまでも性の対象であろう。
 ただこっくり頷くばかりの、恥ずかしくて口も利けない娘たちに、モラエスはロリータ趣味なのかなと疑いながら、私は笑ってしまった。
 日本に来てから何の迷いもなく吉原通いもしている。この人は、海軍に籍をおいたゆえに、女性を性具としてしか見ないのかもしれないと思う。モラエスの相手はすべていうところのクロウトさんなのである。
 「ぼくの家の女中が死んだ」と妹フランシスカや友人宛の書簡にはおヨネの死を認めている。
 私はここでブラジル開拓初期に、インジオの娘たちと結婚し、ブラジル人家族の祖となったポルトガル貴族の青年たちが、やはり、現地妻としてしかあつかわなかったことを思い出す。謄本には子どもの出生年月日は載るが、母親は女中として登録されるのが一般的だった。
 『おヨネとコハル』には、病床の様子がじつにこまごまと描写されているが、そこにあるのは作家の目で、それもまた愛情とはいえなくないが、哀れなものに対する憐憫の情といったほうが正しいのではないか。
 少なくても男女同等の愛ではないと私は断定的に思う。やさしいが醒めている。ここに紹介した一連の文章の末尾で、作家としての姿勢をモラエスはこう述べている。
 「・・・自分自身より冷静に観察するには、自分を外界に押し出して自分の分身を作り、その分身を、偶然に出会って自分の目に入った人物の公平無私な観察者—その人物が自分自身であることなど無視して—に仕立てるのがいちばんだと思ったのだ」1919年6月徳島にて(伊賀町3丁目の4軒長屋)(つづく)

写真=4月にポルトガルを訪ねた中田さん


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