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特別寄稿=私のモラエス=「サウダーデ」を巡る移民側からの随想=中田みちよ=(上)

ニッケイ新聞 2011年7月13日付け

 1899年から14年間、神戸の在日ポルトガル領事館の総領事などを務めたヴェンセスラウ・デ・モラエス(リスボン生れ、1854—1929年)は軍人、文筆家としても知られる。著書には『おヨネとコハル』『日本精神』『徳島日記』などがあり、芸者おヨネと共に暮らし、彼女の死後は職を辞して、ヨネの故郷である徳島市に移住。ヨネの姪であるコハルと暮らすが、やはり先立たれる。徳島ではスパイの嫌疑をかけられ、「西洋乞食」とさげすまれたこともあり孤独のまま同地で亡くなった。作家・新田次郎の絶筆はこのモラエスを取り上げた小説『孤愁 サウダーデ』だった。その次男で数学者の藤原正彦が父の取材の道筋を追体験し『父の旅 私の旅』として出版した。そんなモラエスに惹かれた中田みちよさんが今年わざわざポルトガルを訪れ、モラエス足跡を辿り随筆を寄稿したので、ここに掲載する。(編集部)

 「いま、たいそう、りっぱなモラエスを語られましたが、私どもが聞き知っているモラエスは、こじきのようにぼろぼろで、『エロ・キチガイ』とか『ケトージン』とか悪口をたたかれていました」
 講演会終了後の質疑応答の席上、挙手した一人の日系老人が前方に進み出るとこう言った。
 ブラジルでの暮らしが長いひとなのであろう。日本語ではなく、ブロークンのポルトガル語で、そのなかに単発的に日本語が混じる。トツトツという形容詞がぴったりの話は行きつ戻りつする。話しなれない人がたまりかねて、といった風である。たしか1999年のことだった。
 サンパウロの国際交流基金の多目的ホールは、100人も入るといっぱいになる。岡村多希子氏の講演「モラエスの日本」は八分ぐらいの入りであった。
 岡村氏の『おヨネとコハル』の訳書が上梓されて10年ほど経った頃である。このほか『南蛮文化渡来記』などの訳書もある氏は当時東京外国語大学の教授。
 リオの連邦大学が主催した第10回『日本語・日本文学・日本文化』学会の主席講演者として来伯したものを、国際交流基金がサンパウロ在の文学好きのためにパウリスタ大通りの事務所に招いたものであろう。
 岡村氏が述べるモラエスのヨーロッパにおける日本紹介の功績や作品名を聞きながら、ものを書く人間は意識するしないにかかわらず、常に自分自身を美化するものなのだから、世にいうところの虚像と実像の落差をみる思いがして、私にはたいそう面白かった。モラエスが私に棲みついた。
 そのうち、私はヴェンセスラウ・デ・モラエス(Wenceslau Jose de Sousa Moraes)が自分自身を冷徹にスケッチしている文章を見つけた。H・テン・カテ博士に宛てた書簡の中でこう記している。
「・・・(前略)その人は身体に似合わない青いフランネルの粗末な服を着ていたが、その服はしわくちゃでほこりだらけで、布地のけばには猫の毛がいっぱいくっついていた。そのことから、服のほこりを払い手入れする、女性の入念な手がもはやないことがわかった。頭には灰色の縁なし帽。しわの寄った手には太い杖。長い巻き毛の頭髪が肩にかかっていた。手入れのされていない長いあご鬚が顔のまわりを覆い、時々風に波打っている。頭髪はまだ金色をしている。あご鬚はほとんどすべて白くなっているが、かつて金色をしていたある種の鬚は決してまっ白にならない、そういう麦わら色がかった白さであった。もじゃもじゃの頭髪とあご鬚が、文句なしにグロテスクな圧倒的な顔の特徴であり、その他の表情はもじゃもじゃ髪の中に恥ずかしそうに隠れているようであった(後略)」
 あの日系老人が故郷の徳島で耳にしたであろうモラエスの風聞は、これであろうか。1919年に書かれているから、3年前にコハルに死なれてから後の日常である。
 モラエスの日常はおヨネとコハルが埋葬されている「潮音寺」詣でをすることが仕事であったから、文字通り天涯孤独で、体中を風が通りぬけるようなすかすかした様子で歩いていたのだろう。
 インターネットでみつけた老年期の着物姿の、ちゃんちゃんこを着たモラエスの写真がある。私たちがサンパウロの街でいつも見かけるポルトガル人とかわりなく、とりたてて怪異な容貌でもないし、それほど枯れてもいない。いや未だにに男がにおう。
 さきの文章は自画像だから少し筆が偽悪的なのかもしれない。また『南蛮文化渡来記』のなかには若い日のモラエスの写真があるが、もしかしたら偏執的かなという印象をその口元が与えるが、決して醜くない。外交官だったのだから紳士でもある。
 ただし、西洋化とはほど遠い徳島の片田舎では、異様な人間に見えただろうことは想像にかたくない。日本人の異人観は『酒呑童子』に集約されるのだから。もう少しつづけよう。
 「・・・(中略)その人は、気力体力を使い果たした人らしい頼りなげな動作でゆっくり歩いて行った。煙草を吸っていた。
 ときどき、ぼんやりとした視線を左手の方、山の深い木々に投げていた。その上空には丁度、ひとむれの鴉が飛びかい、カアカアと恋の歌を歌っていた。
 その時刻には大勢いるいたずら小僧どものそばを通ると、「ケトージン」(鬚のある野蛮人)と呼ばわるものがいるかと思うと、揶揄して軍隊ふうの敬礼をしてペロリと舌を出すものもいた。女の子までが同じような冷やかしの仕種をしてみせる。
 だが日本では女性の身ぶりというのはたいそう優雅なので、その同じ冷やかしが愛嬌に変わり、いかにも優しそうな感じがする。老人は感謝しているのか苛立っているのかどういう意味なのか知らないが、それらすべてを軽く笑う。
 ところが不意に、そばを通りかかる小さな女の子の頭の上に手をのばしてその漆黒の髪の毛をそっとなでるのが見えた」
 「それらすべてを軽く笑う」のは自嘲であろうか。私はするっとモラエスの中にもぐりこんでみる。
 日本人の私がバイアあたりの僻村で、地に埋もれたような生活をしている。ホコリっぽい白い道を、このあいだまで身の世話をしてくれていたカボクロの娘の墓参りに行く。身の世話ばかりでなく、セックスの捌け口にもなった娘である。
 歩きながら決して後悔などではないが苦笑いがもれる。人生というものにたいして向けられる、「たいしたもんでもなかったな」という苦い笑い。それ自体は深い意味をもたない。そうではないかと私は思う。
 わけのわからない異人に頭を撫でられて女児は身震いしただろうから、このあたりが『エロ老人』にさせられた要因かもしれない。(つづく)

写真=徳島時代のモラエスの様子


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