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神戸の小学生が移民研究=曽祖父は移民船の機関士=写真に写る移民の消息尋ね

ニッケイ新聞 2011年7月16日付け

 6月11日、弊社編集部に宛てて一通のメールが届いた。差出人は神戸に住む小島華さん(11歳)、小学6年生の女の子だった。趣旨は「自由研究で日本移民について調べるので協力してほしい」との事だった。というのも、昨年の夏休みには機関士として南米移民船にも乗り込んだ曽祖父の海上勤務の歴史を調べていた。曽祖父が働いた移民船に乗って、多くの日本人がはるかブラジルへ運ばれたことを知り、興味は日本移民の歴史へと膨らんでいったという。「この方たちがまだ元気でいらっしゃれば、当時のことなどをお聞きしたい」と華さんはメールで依頼してきた。この写真に写っている本人、猪俣さんを覚えている人などがいたら、ぜひ編集部まで連絡を。

 研究を始めた発端は、猪俣精男さん(戦後の性は小島)が遺品として残した一冊のアルバムだった。そこには、華さんが一度も出会うことのなかった曽祖父が、南米移民船の機関士として働いていた頃の様子や、乗船していた人々が活き活きと写っていた。
 その歴史を紐解くべく、猪俣さんが当時勤めていた商船三井(旧大阪商船)に問い合わせの手紙を出した。すると返事と共に、80年以上も前の資料が大量に送られてきた。
 水戸生まれの猪俣さんは、1923(昭和3、当時23歳)年に東京高等商船学校(現・東京海洋大学)を卒業後、大阪商船に就職した。その後、国から東亜海運に異動を命じられるまでの14年間、機関士として海を渡った。
 搭乗した船は全部で10隻。そのうち移民船は、戦前最後のブラジル移民船として知られる『ぶえのすあいれす丸』、その姉妹船『りおでじゃねろ丸』の2隻だった。
 猪俣さんは「ぶえのすあいれす丸」には1934、5年の2年間弱、「りおでじゃねろ丸」には1937年から1939年の3年間勤務していたという。りお丸では一等機関士として活躍した。
 両船とも、昭和初期の南米移民船では新型ディーゼルを積む最新型で、1隻あたり千人あまりの移民を収容することができた。
 神戸を出発し、サントスに到着するまでの約46日に及ぶ長旅に備え、船内には病室や産室を始め、あらゆる設備が完備されていた。
 船内新聞の発行、子どもへの授業、スペイン語やポルトガル語の学習も船内でなされた。日々の食事は丹精して作られた日本食が振舞われたという。運動会やパーティーも開催され、赤道を通過する際は、龍王から赤道を越えるための鍵をもらう赤道祭も行われた。
 移民の歴史へと研究を進めた華さんは、神戸にある移民資料館や記念碑も訪ねた。そして、移民として旅立った日本人に敬意を抱くようになった。「明日を信じ、日本をはなれて他の国に行くなどという行動は、そうそう出来ることではないと思います」と、昨年の自由研究を締めくくった。
 編集部では紙面に写真を掲載し、情報を募ることにした。写真に写っている本人、猪俣精男さんを覚えている人は編集部(11・3208・3977/児島)まで連絡を。

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