ホーム | 連載 | 2012年 | ゲバラと共に戦った前村=伯国親族と再会したボリビア子孫 | ゲバラと共に戦った前村=ブラジル親族と再会したボリビア子孫=最終回=二世と「新しい人間」=移民が南米に植えたもの

ゲバラと共に戦った前村=ブラジル親族と再会したボリビア子孫=最終回=二世と「新しい人間」=移民が南米に植えたもの

ニッケイ新聞 2012年2月23日付け

 日本移民が南米にもたらしたものは何なのか——。この問いへの答えがヘクトルにはある。
 『革命の侍』には、純吉がもたらした日本的精神がフレディに与えた影響に関して、エクトルとマリーの連名でこう書かれている。《(純吉は)二〇世紀初頭、鹿児島から南米の地に渡りました。努力と犠牲と労働を礎に、日本の文化と伝統を新天地に格式高く植えつけることに成功しました。彼らはラテンアメリカに新たな性格を刻み込み「新しい人間」(スペイン語=オンブレ・ヌエボ)をもたらしました。そこから、フレディのような革命家が生れてきたのです》(4頁)。
 「新しい人間」とは、ゲバラがキューバ工業相時代に提唱した「共同体のために尽くし、労働を喜びと感じる『新しい人間』を育成しよう」との言葉に由来する考え方だ。勤労を尊び、共同体に尽す人材が豊富に輩出された時にこそ、南米にも新しい国家展望が生れるとの思想だ。だから勤勉で集団の規律を重視する日本的精神が、南米の「新しい人間」育成に貢献するものである、そうヘクトルは考えている。
  ◎   ◎
 日伯毎日新聞の中林敏彦社長は革命運動に身を投じた息子ジュンに、「もしやるんだったら中途半端じゃだめだ。あとで泣きっ面になるんだったら最初からやめたほうがいい。やるんだったら徹底してやるんだね」(『暑い夏』80頁)と言っていたとある。
 前述のように邦字紙はコロニア保守言論の中軸であり、このような発言は表立ってはできなかったはずだ。でも心の中では、息子の気持ちを理解していたに違いない。
 中林は「ジュンたちの闘いは世直し運動だった。ブラジルにおける明治維新だったのかな」(同80頁)とまで考えていた。
 戦前の日本移民が持つ〃明治の精神〃が二世の中に純粋培養され、戦後の勝ち負け抗争の原因にもなったが、返す刀で、一般社会を変革する方向にも発揮されたとはいえないだろうか。二世学生の心の中では日本人的な生真面目さと明治維新以来の革新的気運が融合していたのかもしれない。
   ◎   ◎
 07年にヘクトルと母マリーはブラジル親族を訪ねた時、50人ほどが集まって歓迎した。「みんな涙流しながら、初対面とは思えない感じだった」と重朋は思い出す。
 重朋は08年に訪日する前、「一緒にいかないか」と誘い、これがエクトルの初訪日となった。2人で鹿児島を訪ねた時の時の様子を重朋はこう思い出す。「エクトルは突然涙をボロボロ流しながらこう言うんだ。『爺ちゃんは戻りたくても戻れなかった鹿児島に、自分はこうして来ている。爺ちゃんには故郷だが、僕にとっては全然知らない人たち、でもなぜかとても懐かしい感じがする。とても不思議な気持ちだ』と。凄く感慨深そうにいっていました」。
 祖父の郷里を訪れたエクトルは、明治維新の原動力となった薩摩藩の歴史を知り、「フレディには革命家の熱い血が流れていたに違いない」と確信した。
 シルビアがハバナに住むマリーの家を訪ねていった時、自宅の机の上には、ラウル・カストロ国家評議会議長からの手紙がさりげなく置かれていたのに驚いた。
 前村家はフレディを通してキューバと関係が深いが、べつに共産主義に共鳴している訳ではない。「60年代はキューバ革命の夢が世界中に広まっていた時代だった。でもその後、独裁政権になったしまった。エボ・モラエス大統領も社会変革を求めているが、共産主義は私にとっては過去のものに過ぎない」。エクトルはそう考えている。
 日本、ペルー、ボリビア、ブラジル、キューバ、その背景にある大戦や冷戦構造という世界史的な流れに翻弄された家族の物語は、70年ぶりの〃絆〃の復活という奇跡を生み、未来に向けて動き出した。(終わり、敬称略、深沢正雪記者)

写真=マリー(後列中央)とエクトル(後列左から4人目)を迎えるブラジル側家族(07年4月29日、サンパウロ市、Foto=Silvia Maemura)



image_print