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ゲバラと共に戦った前村=ブラジル親族と再会したボリビア子孫=第6回=変わる時代の流れの中で=テロリストから理想義者へ

ニッケイ新聞 2012年2月18日付け

 ブラジルでは64年3月、ゴラール大統領が掲げていた農地改革などの社会改革が保守派の抵抗で進まない中、国民投票に持ち込んで決しようとした時、保守派と結託したカステロ・ブランコ将軍がクーデターを決行した。
 ウィキペディア「ブラジルの歴史」項にはその時、「アメリカ海軍の空母を含む艦隊がリオデジャネイロ沖で演習を行い、いざとなれば介入する意向を示していた」とあり、米国は無言の圧力をかけていた。
 カステロ・ブランコ大頭領は戒厳令を敷いて強権を発動し、国会解散や既存政党の再編を実施した。以来、第三世界中心だった外交を改め、ブラジルは南米における「親米反共の砦」として君臨するようになった。
 冷戦構造を軸にみると、フレディが革命運動にのめり込んだ社会状況と、60年代後半のブラジルは類似している。当時DOPS(社会政治警察)から手配された日系学生の多くも、社会の矛盾に真剣に対峙しようと左派運動に身を投じていた。
 時の政権の強権的あり方に対して、邦字紙もまた歴史的なトラウマ(心的外傷)を負っていた。藤井卓治は『笠戸丸から60年』(県連、69年)の中で、こう言い表す。「日本語新聞最大の欠陥は、ブラジルの政治批判が許されないことにある。三浦日伯は日本の出先官憲批判で、時報と対立となりブラジル政治批判のワナにひっかけられて2回も国外追放の憂き目をみた」(50頁)ことが経営陣に深い傷跡を残していたと指摘している。
 加えて、41年にはヴァルガス独裁政権から全紙発行停止にされた苦い記憶もある。このトラウマが邦字紙の生殺与奪の権を有する政権への批判をさける態度につながったようだ。二世が反政府活動に組するのを是とすることは、当時の空気からは出来なかった。
 『七十年史』も『八十年史』も日系学生の政治運動にはほぼ触れていない。移民60周年を祝う67年5月の皇太子殿下ご夫妻のご来伯がこの時代最大の出来事のように書かれている。
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 南米諸国は米国の後ろ盾によって軍事政権を保ったが、冷戦構造が90年頃に向けて崩壊していく過程で、民政移管期(80年代)を経て左傾化する流れにあった。
 ボリビアでも82年に民政移管され、93年にMNRのゴンサロ・サンチェス・デ・ロサダ政権が生れ、初の先住民出身副大統領が就任した。この頃から軍政時代への見直し気運が強まった。
 その流れで97年にキューバと亜国の調査チームによってゲバラの骨が発掘され、遺骨はキューバに運ばれた。フレディの遺体も99年に掘り起こされ、他のゲリラと一緒にキューバの「ゲバラ霊廟」に安置された。
 南米に左派政権が次々に立ち上がると同時に、軍政時代の見直しが進んだ。それまで「テロリスト」といわれていたものが「理想主義者」と再定義される流れだ。
 これが前村家にも影響を及ぼし、フレディの本を出すことが可能になった。「真実を語る本を出すまでに40年かかった。母の念願だった」。そうエクトルは静かに独白し、「フレディが軍事政権からテロリストの烙印を捺されたために、家族は長い間いわれのない迫害を受けた」と繰り返す。
 フレディの姉マリーはジャーナリストのエクトル・ソラーレス・ガイテ(故人)と結婚し、35年近くこつこつとフレディに関する調査をして書きとめてきた。02年に夫が亡くなり、それを引き継ぐ形で息子エクトルが本にまとめた。
 叔父についての本を書くことになり、母の執念がこもった原稿を読み返しながら、エクトルは「若いときは叔父がどんな人かまったく分からなかった。彼のために父は投獄されたし、親戚は誰も語りたがらず、極悪人か殺人犯のようなイメージを持っていた」とふり返る。
 ところが調査を進めるに従い、見方がだんだん変わっていった。「実は彼は理想主義者だったと分かった。社会の変革に理想を持ち、その実現に人生を賭けた人物だったと思うようになった」。(つづく、敬称略、深沢正雪記者)

写真=ブラジル側親族の前で話をするエクトルを、涙ぐみながら見つめるマリー(2007年4月29日、Foto=Silvia Maemura)



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