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第1回=原点はインディオ、ポルトガル、黒人

ニッケイ新聞 2012年3月20日付け

 私達が住む「ブラジル」が現在のような多文化が入りまじった形になったのは、どのような経緯からか。移民はその文化形成にどんな役割を果たしているのか。そして、ブラジル文化は世界にどのような影響を与えているのか。座談会はこれらをテーマにして、ブラジル文化に詳しい岸和田仁さん(ひとし)、ポルトガルに駐在歴のある小林雅彦さん、モザンビークに3年いた中山雄亮さんの3人に参加してもらい、深沢正雪編集長が司会をして1月31日にニッケイ新聞社内で行なわれた。ポルトガルのポ語と違いについての興味深い指摘から、イタリア移民が及ぼした食やノベーラへの影響、さらにアフリカのポルトガル語圏諸国の文化についてまで縦横無尽に話題は展開した。ここでは各人の役職とはいっさい関係なく、個人的な意見や体験、思いをざっくばらんに語ってもらった。(編集部)


■ブラジル文化の三原色の上に移民文化加わる

【岸和田】=ブラジル文化形成の粗筋なんですが、時系列にみていくと、まずポルトガルの植民地時代にブラジル的アイデンティティの原型が生れ、その後に外国人移民が持ち込んだ文化が入って来て、それが折り重なってさらに面白くなっていくという構図だと思うんですよ。
【深沢】=やっぱり最初の部分は、植民地時代の宗主国ポルトガル文化がベースなんですね。
【岸和田】=いや、「ポルトガル」と「黒人」と「インディオ」の三位一体ですね。ポルトガルだけじゃないんです。ジルベルト・フレイレ(編註=1900—1987年、20世紀のブラジルを代表する社会人類学者)が言うとおり、それぞれの影響がある。
 ジルベルト・フレイレは実に興味深い人物で、当時のブラジルの学者の憧れの地であるヨーロッパじゃなくて、アメリカで勉強しているんですね。彼はレシーフェのプロテスタント系中学高校を出てからテキサスの大学行って、それからコロンビア大学大学院で修士論文を書いた。
 そのときの先生がフランツ・ボアズという人類学者です。アメリカの文化人類学を作った有名な人(ユダヤ系ドイツ人)です。彼は文化相対主義、文化に上下はないよっていう考え方だった。それがあったから、ポルトガルだけじゃなくって、その頃卑下されていた黒人なりインディオを並べて評価するようにした。
 それが『カーザ・グランデ・エ・センザーラ』(Casa-Grande e Senzala、ジルベルト・フレイレ著『大邸宅と奴隷小屋 ブラジルにおける家父長制家族の形成』鈴木茂訳、日本経済評論社、2005年)のベースです。
 インディオにも文化があると認めて、それこそ我々がいま読むと「なにこれ」ってことまで書いてある。例えば、水浴びをするのはインディオの文化で、ポルトガル人の方がそこから学んだって書いてあるんですよ。
【深沢】=え〜っ。
【岸和田】=そういう冷静な目で黒人文化も評価した。そこは革命的だと思うんですよ。ポルトガルを否定すると自己否定になっちゃうから、そこをプラス評価しよう。その上でブラジルの独自性をどうしようかって考えて、(3文化の)統合に悩んだ。色んな人達がブラジル論を展開するようになっていくのが1930年代以降です。
【深沢】ということは、ポルトガルの植民地だった時代に宗主国の文化、奴隷として大量に入れられた黒人、元々住んでいたインディオの3文化が融合してブラジル文化の原型ができ、1888年の奴隷制廃止の前後から奴隷の代わりに入れられた外国人移民が持ち込んだ新しい文化が混ざり、さらに多様化していくなかで、1920年代以降にブラジルの独自性を求める動きが強まって行ったわけですね。


■サンパウロ市セントロはパリに似ているか?

【深沢】=ところで、3年前に家内がパリに行ったとき「パリの町並みがこの辺(サンパウロ市のセントロ)にすごく似てた」という感想を聞いて、ものすごく驚いたんですけど、本当にそうなんですか?
【岸和田】=そうそう似てる。汚いんですよ、パリって。だからブラジルから行くとほっとするんです。
【深沢】=へエ〜っ。
【岸和田】=汚いですよ〜。もちろん素晴らしくきれいなところもありますが。リオもそうですよ。最近崩れちゃったビルがあるようなリオのあのあたりってのは、元々マングローブ地帯なんですよ。それを埋め立てちゃったのが、ビル崩壊の原因の一つだって言われてますけど。リオは広い土地がないから埋め立てて広場を作って、その正面にテアトロ作って、南半球のパリを作ろうとした。ま、中途半端だけど。モデルはやっぱパリですよ。
【深沢】=欧州とブラジル文化の近さはよく言われますが、宗主国ポルトガルの首都リスボンより、パリがモデルになるわけですか。
【岸和田】=リオの場合はパリですね。例えばサンパウロ大学でも、最初の頃の教授陣は圧倒的にフランスから呼んでいますよね、文科系、特に社会学なんてのは。
【深沢】=『悲しき熱帯』のレヴィ・ストロースとか。
【岸和田】=そうですよ。最初にUSPを作った時招聘した講師陣はレヴィ・ストロースや歴史学のフェルナン・ブローデル、ちょっと後では人類学者のロジェ・バスチード、みんなフランスですが、錚々たる人物ばかりです。
【深沢】=なるほど。
【岸和田】=だいたい当時は授業も全部フランス語ですよ。鈴木悌一さん(編注=サンパウロ総合大学日本文化研究所の初代所長、人文研から鈴木正威著『鈴木悌一—ブラジル日系社会に生きた鬼才の生涯—』が刊行されている)の伝記を読むと、鈴木さんってのは語学の天才ですから、源氏物語もそのまま原文で読んだ人ですけど、ギリシャ語もラテン語もそのままさらさらっと読んだ人。レヴィ・ストロースは授業をフランス語でやったんです。鈴木さんはそれを受けていた。
【深沢】=ほお〜っ(唖然)。
【岸和田】=多分、鈴木悌一さんはレポートをフランス語で出したはずです。
【深沢】=…すごい時代ですね。
【岸和田】=いやいや、日本だって明治時代、東京帝国大学の授業は英語でやってたわけですから。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)だってそうだし、理科系の授業みな英語でやってたわけですよ。それはまあ、時代ですよ。(つづく)

写真=座談会の様子(左から小林さん、岸和田さん、中山さん)/ジルベルト・フレイレの著作を髣髴とさせるエンジェーニョ(砂糖農園)のセンザーラ(奴隷小屋)の光景(ペルナンブーコ州、写真提供=岸和田仁さん)



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