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国家事業救った8人の侍=知られざる戦後移民秘話=第2回=「男の仕事」求めて渡伯=測量ミス発見し有名に

「あんな測量なら、高校の実習すら合格できない」と荒木さん

 荒木昭次郎(74、山形、青年隊9期)=ミナス州ベロ・オリゾンテ在住=は、56年に山形工業学校土木科を卒業し、上京して建設会社で働いた。いわゆる戦後の「金の卵」世代だ。
 日本で食えなかったわけではない。むしろ景気は右肩上がりの高度経済成長に突入していた。ただ、自社の営業部員が連日、談合や接待に明け暮れている様子を横目に見て、そのせせこましさに嫌気がさしていた。自分が手がけたい建築はこんなものではない。そんな想いが募っていた。
 東京・浅草の現場でケーブル敷設をしていた時、たまたま新聞を開いたら「ブラジルで全長2千キロの街道工事」とのブラジリア・ベレン街道の記事が一面を使ってデカデカと報じられていた。それをむさぼるよう読んで、「これぞ男の仕事だ!」と一念発起した。
 ジュッセリーノ・クビチェッキ大統領(56—61年)の壮大な構想により、ブラジリア遷都と一体となった国土縦断幹線工事にめまいをするような感動を感じた。
 62年、旧建設省がやっていた「南米産業開発青年隊」に応募した。これは、終戦直後に就職難を被っていた農家の二、三男を建設技能者として養成し、国土開発に役立つ人材に育成する制度だ。56年から67年頃までの10年余りで326人をブラジルに送り出した。
 荒木は63年8月に渡伯した。ところが64年3月、北パラナのウムアラーマ訓練所で8カ月過ごしたところで、建設省が同訓練所を廃止した。
 南米の地でほっぽり出された恰好になり、サンパウロ市に出て新聞広告で測量の仕事を探した。幾つも面接に行ったが「言葉ができないとダメ」と言われて採用されなかった。技術があっても職を得るにはポ語が必要だった。移民の誰もがたどる茨の道に突き当たった。
 知り合いを頼ってゴイアス州に行き、まずは道路測量の仕事をすることになった。「そこの技師達が500メートルほどの距離を点々と測量すると、もう1メートル違っている訳です。測量機械の調整を知らないんですね。日本なら測量する前に覚える技術、あのレベルじゃ高校の実習でも合格しませんよ」と笑う。
 まさに当時のゴイアス州は遷都関連で工事花盛りだった。青年隊第1次(56年渡伯)の黒木喜八郎と安摩(やすま)勉(つとむ)は、58年からブラジリア近郊の地形測量を手がけ、60年6月からはゴイアスとミナス州境のカショエイラ・ドウラーダ第二期工事の測量に移っていた。
 荒木は66年、黒木の紹介で同ダムを運営するゴイアス中央電力会社(CELG)に入社して測量部で働き始めたが、そこで命拾い体験をした。
 「たまたま取水口下部の検査をしている時に、上からコンクリート片が額を掠めて落ちてきて、前頭の表皮をけずりました。幸い大事には至りませんでしたが、医者からは『もう1センチずれていたら頭蓋骨骨折であの世行きだった』と言われました」と思い出す。途上国の工事現場に立つ〃ダム男〃人生の幕開けに相応しい洗礼だった。
 そこでタービンが設計どおり据えつけられているか確認する測量時、ズレを発見して指摘すると、据えつけ担当のイタリア人技師らが大騒ぎになった。もしそうなら直径が約8メートルもある水車の垂直軸が熱をもって焼けてしまう。最終的にその技師は「ジャポネースの言うとおり」と認め、「アラキ」の名は徐々に業界で知られるようになった。
 メンデス・ジュニール社(以下、MJ社)に移り、各地のダムで図面と首っ引きで構造体の部材の測量する経験をつみながら、「コンクリートの型枠」の工事法をおぼえて技術部へと移り、形枠設計担当になっていた。(敬称略、つづく、深沢正雪記者)

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