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山本喜誉司と護憲革命=家族が語るコロニア秘史=(4・終)=〃光は東方より〃と叫びたい

ニッケイ新聞 2012年7月7日付け

 護憲革命で連邦軍が近づき、東山農場内に陣地をはっていた聖州軍がカンピーナス市方面に後退した時、興味深い光景がくり広げられた。山本喜誉司が書いた『農場で見た千九百三十二年護憲運動記』には、こうある。
 【逃げ腰になっている弱い兵隊サンだけに一層哀愁の念も起る。たとえ弱い兵隊サンでも我が州の兵隊サンだ。諸君が撤退して行けば、いつかは未知の軍隊の指揮下に置かれる。一種の不安も襲い来る。こんな多少の感傷のうちにあらかじめ用意してあった日の丸の旗をベランダの旗竿にスルスルと揚げて、叫んでいったものだ。「諸君の健康と幸福を祈る」と。
 三人の仕官はベランダに立ち並ぶ我々に礼を述べ別れを告げ、そして隊伍に向かって「ヴィバー、バンデイラ・ド・ジャポン」と音頭をとった。兵隊サンは片手に銃を差し上げ、それを三度繰り返した。やがて向かいの牧草地を足重く退却して行く後姿を、我々は好意を持って見送った】
 同運動記を分析した柳田利夫慶應義塾大学教授は『山本喜譽司の「ブラジル人観」』という論文を書き、【連日両軍が激しい銃撃戦を続けながらも、塹壕に籠もって撃ち合うだけで白兵戦へとは展開せず、「双方各一名ノ戦死者ヲ出セルノミ」であることに触れ、 「何トブラジル式デハ無イカ」と、そして最後は、四八時間の休戦協定が結ばれ、「両軍将校連ガ互ニ抱キ合ツテ交歓」していたにもかかわらず、数時間後には「午后三時半ヨリ再ビ交戦状態ニ入ルベシ、御注意アリ度シ」と通告され、「サリトテハ又何トブラジル式、開イタ口ガフサガラズ」と、当惑と苛立ちの中で、両軍の戦争の進め方を「ブラジル式」という言葉で揶揄しているのである】と記し、山本が革命を通してブラジル人観察を深めた様を分析した。
 山本は最後に想いを込めた文章で締め括る。【もっぱら革新の血路を探求しつつある、健氣な故国日本の遠望を背景として、当地の出来事を見るとき、吾人は新らしく〃光は東方より〃と叫びたい。近く在留日本人が30万、40万となった時、果たしていかに?】
 山本は「東方」に祖国日本の意味を込め、「なんとブラジル式」と当惑した革命の現実を見て、東洋から差し込む光が希望をもたらすことを望んだ。だが、革命を鎮圧したヴァルガスは日本移民に〃闇〃をもたらし、戦後に起きた勝ち負け抗争は日系社会を絶望の淵にまで追い込んだ。
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 坦は「父は、勝ち負け双方が手を組んで取り組める何かをしなくてはと考え、聖市400年祭の準備を始めた」と振り返る。54年5月に日本館の上棟式、8月31日には無事に竣工した。かつて護憲革命で聖州軍を鎮圧し、枢軸国移民を苦しめた因縁のヴァルガス大統領は、奇しくも日本館の竣工一週間前、8月24日に自殺していた。
 「イタリア移民やドイツ移民、英国人や米国人などがイビラプエラ公園にパビリオンを作ったが、常設館は日本だけ。父は『勝ち負けを統合するには時間がかかる。後世に残る立派なものを作らなければ、勝ち負け抗争で悪いイメージが広がったブラジル社会の印象を良くすることは出来ない』と考えました」
 58年の移民50年祭では祭典委員長をつとめ、三笠宮殿下ご夫妻の来伯を実現した。勝ち負け関係なく、コロニアのみなが実現を待ち望んでいたことであり、まさに自らで〃東方からの光〃をもたらした快挙だった。
 一日4箱の愛煙家だった山本は肺ガンで63年7月31日に亡くなった。「父は貧乏なまま死んだ。最後には借金まで残し、僕ら兄弟がそれを返したぐらいだった」と明かす。山本が亡くなって来年で50周年——伯国史に織り込まれたその業績が改めて見直されてもいい頃ではないか。(敬称略、終わり、深沢正雪記者)

写真=1929年頃、カンピーナス市内で行われた民族祭でミニ日本館を作り、伯人女性に着物を着付け、地元有識者らを驚かせた。(山本家所蔵)



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