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山本喜誉司と護憲革命=家族が語るコロニア秘史=(1)=東山挟んで撃ち合いに

ニッケイ新聞 2012年7月4日付け

 「今回語ったことの多くは、家族しか知らなかったことです」。2時間半にわたる取材の最後に、山本喜誉司(1892—1963、東京)の二男のカルロス坦(たん、88、北京生まれ)はそう付け加えた。ブラジル国家の背骨を作ったといわれるヴァルガス政権初期に起きた、伯国史最大の市民戦・護憲革命から数えて、この9日で80周年となる。笠戸丸から24年、1932年9月下旬、連邦軍と聖州軍は東山農場を挟んで対峙し、最後の激戦を繰り広げた。今年11月に創立85周年を迎える日系最古の企業の一つ、東山農場がブラジル史に残る貴重な歴史的舞台となった瞬間だった。その時の農場長・山本喜誉司は、戦後に聖市400周年や文協創立をはかり、日系社会統合をなしとげた。知られざるその家族史を聖市の自宅で坦に聞いた。

 当時の大統領就任は〃カフェ・コン・レイチ〃と呼ばれ、聖州の主力産品であるコーヒー、牧畜が強いミナス州出身者が交互に務める暗黙の了解があった。それに不満を持った他州の政治家や軍人の支持をえた南大河州出身のゼッツリオ・ヴァルガスが30年に革命を起こして政権を握り、共和国憲法を停止した。
 既得権益を奪われた聖州勢はヴァルガスの独裁的やり方を槍玉に挙げて「憲法を守れ!」を掛け声に、州兵を中心に義勇軍を組織して闘ったため、「護憲革命」と呼ばれた。もし、聖州軍が勝っていれば首都は聖市になっていたといわれる。
 蜂起した7月こそ圧倒的な勢いで首都リオに向かって進軍した聖州軍だが、連邦軍が体制を整えた8月から徐々に押し返された。連邦軍は兵士10万人を動員したのに対し、聖州軍は6万人の義勇軍を組織したが、装備や訓練の点で大差があった。ミナス方面から聖州内に進攻してきた連邦軍は、9月上旬には聖市まであと100キロのカンピーナスに迫っていた。
 東山農場は連邦軍のカンピーナス市攻略の進路に位置していた関係から、聖州軍は防衛の最終拠点を農場の反対側に置いた。そのため9月中旬以降、革命終盤の激戦地となった。9月の「農場月報」には、次のような緊迫した記述(現代表記に修正)が見られる。
【9月15日=午前9時、連邦軍飛行機が農場上空に現われ、州道を通過中の牛群を目掛けて機関銃及び爆弾1個を落とし、コーヒー園に落下爆発する。労働者は珈琲園に出動中なりしも被害なし。これにより農場作業暫らく困難となる。斯(かくし)て農場の戦闘地と化す事、到底免れ難しと見て、場員家族を全日カンピーナスに避難せしめ、場員ならびに本部付近の日本人のみ合計11名を本部に結集、農場守護を決す】
 機関銃や爆弾が農場を挟んで飛び交う状態になったが、山本喜誉司を先頭に幹部は本部施設に残った。山本家は喜誉司を残して聖市へ批難したが、別れ際に坦は父から、こう覚悟を聞いた。「岩崎家から預かったこの農場から離れることは絶対にできない。命に代えても死守する」。明治の日本人の気骨が感じられる一言だ。
【9月26日=珈琲園に陣を張れる一隊退却し、本部に據(よ=拠点を置く)る一隊最前線となる。本部は遂に砲火の巷となるを知り、本部後庭に避難用土窟を開鑿す】
 農場に陣地を張っていた聖州軍が退却したために、本部が最前線となり、連邦軍の砲火を直接浴びることとなり、裏庭に防空壕を掘った。
 「僕らが戻った時、本部の建物には無数の銃痕が残されていた。この部屋ぐらい(3m×7mほど)の防空壕が掘られていた」と思い出す。「父が常々着ていた作業服はカーキ色で、遠めに見ると軍服に見えた。だから間違えて狙撃されるのではないかと周りはヒヤヒヤしていた」と笑った。(敬称略、つづく、深沢正雪記者)

写真=山本喜誉司の二男・カルロス坦



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