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寄稿=日系福祉団体のありかたを問う=サンパウロ市 匿名希望

ニッケイ新聞 2012年12月15日付け

 弊紙では無責任な中傷を避けるために、特定の団体を批判する匿名の寄稿は、基本的に掲載していない。ただし、今回の寄稿は真摯な内容であり、匿名でも公表するにたる理由があるようだ。福祉団体の幹部、役員諸氏にぜひ読んでもらいたい。(編集部)

 夫は一介のサラリーマンに過ぎませんが心が広く、会社からボーナスが出るたびに半分は日系福祉団体に寄付してきました。でも彼は人前にでるのが嫌いで出向くのはわたし。ですから援護協会、憩の園、こどもの園と希望の家には数十年間も出入りしています。行く度に思うのは、この福祉団体に働いている方々は寄付者の応対になにを考えてしているのか?という疑問です。

 有り余っているお金ではない

 人間お金が有り余っている人は少ない筈です。まして社会福祉に寄付するために出向いていく人はもっと少ないに違いありません。自分のお金がどのように使われているかを知りたいのは、寄付した人なら誰でも同じだと思います。寄付しに行った時に相手側の応対でその印象はずいぶん変わってきます。
 わたしは毎年行く度に、何のために寄付しに来たのかと思ってしまいます。それはどの団体に行っても、受付に座っているボーイまたは女の子が受け取り、領収書を書いてくれ、後から会長さんのサイン入りの感謝の手紙が家の住所に届けられます。
 これは事務的処方であって、なんの心もこもっておりませんし、また自分のお金がその他もろもろのお金に混じり(本来はそれでよいのですが)、なんの価値もなくなってしまったように感じるのはわたしだけでしょうか?

 心のこもった対応とは

 これが寄付しに行った時に事務局長さんにでも迎えられ、領収書を待つ間の世間話のついでにこの団体の活動を知らされ、寄付やお手伝いしてくださる善意ある方々のおかげで運営していけると感謝の意を伝えられたら、来年もまた幾ばくかのお金を節約してでも寄付しようという気になるでしょうしょうし、またそうさせるべきでもありましょう。
 今年も寄付しに行ってきました。まずは憩の園からです。事務の女の子と親しい間柄だし、毎年のようにいくので気心がしれているから、感謝の手紙は居合わせた会長さんを呼び、直接手渡してくれるよう手配してくださる。このような配慮をしていただけると来た甲斐があったという気がします。

 「くれるものにケチ」

 次はこどもの園。いつもいるブラジル人の女性がいなく、若い女の子が応対してくれました。側で会長さんと副会長さん方々4人が会議中です。2500レアルの小切手を書いたら、名前をみて「賛助会員ですね、このお金は賛助会費ですか? それとも普通の寄付ですか?」と聞かれました。それで500レアルを賛助会費とし、残りの2千レアルを普通寄付に」と申し出たら、小切手を2枚書いてほしいといわれました。ムカッとして思わず、「内部で振り分けしたらよいでしょう」と答えました。会計となにやら話をしていたら「よろしい」との返事でした。
 そこで思わずこの女の子に「くれるというものにケチをつけるべからず、会長さんや副会長さんが揃っているなら会議中でも一声かけて寄付をいただいたことを知らせるべき、そして来年もまた寄付させるような気分にさせること」と説教をしてしまいました。別に彼女に怒っているわけではないのですが、この女の子は泣き始めてしまいました。
 次は援協。応対してくれたのは若い男の子ですが別室に案内してくれ、「お茶か水がよいか」と勧めてくれました。小切手を受け取り、感謝の手紙を待つ間、世間話の相手をしてくれ、好意的応対でした。ここは何回目かに事務局室の秘書の女性が名前を覚えてくれ、行く度に事務局長を促して手紙をわたしてくれるようになりました。今回は秘書の方は病気静養中でそのような配慮はありませんでした。

 売り言葉に買い言葉

 最後は希望の家。ポルトガル語で寄付したいと3回も言わなければならず、心持ち腹がたちました。ここはいつも応対が悪く、前例もあるのでわたしもふくれ顔。相手は小切手を書く間ムスッとしていて、「この団体のことをもう知っているか」と尋ねる。「もちろん知っているからこうして寄付しに来るし、リッファも買う」と答える。
 売り言葉に買い言葉で、「この事務所の人々は忙しく、寄付しに来る人一人ひとりを事務局長は応対できない、だいたいに博愛の精神はそういうものではない」といわれた時は腹がたち、もう書いて渡していた2500レアルの小切手を引っ込めて帰ってきてしまいました。これでまた寄付者が一人減ったことになります。
 福祉団体のみなさま、このような応対でよいのでしょうか? 寄付した人が、よいことをした、自分のお金が少しでも役立ってくれたと思わせれるような応対は無理な注文でしょうか? それともお金の寄付はありがたくないのでしょうか?

 「感謝の気持ち」とは

 各団体のバザーに行っても同じことです。辺鄙な地域にあるにもかかわらず行ってくださる方々があるからこそバザーが成り立つのです。行ってお金を使ってくださった方々に、感謝の気持ちを伝えるために帰り際に何人かの役員の方々が頭を下げる、この心が大切ではないでしょうか?
 このバザーのために働いてくださる何百人にもなるボランティアのみなさんにも「ありがとう」と気持ちをこめて頭を下げるのも同じ心ではないでしょうか?
 「寄付が減った」「人々があまり手伝ってくれなくなった」と嘆いているのは、自分たちの態度にも原因があるのでは? 役員一人ひとりは立派な活動をしていても、「自分たちはこんなことをしている」という気持ちが先に立ち、福祉団体の基本である奉仕者に感謝する気持ちが後になっていませんか? 人を動かすのは人、もう一度原点に帰って考えてみる必要がありませんか?

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