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第2の子供移民〜その夢と現実=日伯教育矛盾の狭間で=第7回=「単調な工場労働イヤ」=家族残し、自分の意志で帰伯

ニッケイ新聞 2013年1月18日付け

「子どものときから日本に永住するっていう考えを持ったことはなかった」と話した的野さん

「子どものときから日本に永住するっていう考えを持ったことはなかった」と話した的野さん

 「日本での生活が嫌になっちゃったんですよね」。帰伯して1年が経つ的野アドレルさん(22、三世)は、今までの例とは異なり、自分の意思でブラジルに戻ってきた。
 2歳で広島に移住して以来、約20年間を県内で過ごした。母は幼い頃にブラジルに渡った準二世で、広島県警で通訳を務めるほど日本語が堪能だったが、家の中ではポ語での会話が普通だったという。
 一方で家庭以外の生活言語は当然日本語。的野さんも二カ国語を問題なく使いこなす。「いずれブラジルに戻るのだろうって考えていたし、何より自分はブラジル人だって意識は強く持っていたので、違和感を覚えることはありませんでしたね。おかげでポ語会話に困ったことはないです」と敬語を交えて語る日本語は実に流暢だ。
 日本の学校での勉強に対する気持ちは「自分の国のことでないのに」と「周りになめられたくない」という二つの感情の板ばさみとなっていた。
 「『やっぱりこれだからブラジル人は』って思われるのが一番嫌でした。中学校に上がると、日系人の同級生の数がぐんと少なくなったからなおさらで。それでも、やっぱり歴史や国語の授業なんかへの意欲はどうしてもね…」と言葉を濁す。
 好条件を求めて転職を繰り返す家族の都合で、10回以上の引越しを経験し、その都度、転校も余儀なくされた。「中学生の時は、いったん転出した中学に再転入することまであった。何度も何度も新しい環境になじまなきゃいけない、慣れたらまた転校…。そりゃあ、うんざりして登校するのも嫌になりますよね」
 そんな学校生活での唯一の楽しみは部活動でのバスケットボールだった。「やはり〃外国人だから〃という理由で嫌がらせや軽いイジメもありました。でもバスケで活躍すればみんな認めてくれる。自分を見る目が変わる。それにチームワークの重要性とか、生きていく上で大事なこともたくさん学べました」と話し、「バスケと出会えただけで日本に行った甲斐があった」とまで言い切る。高校への進学を希望した理由も、継続して部活動を続けたいという気持ちによるものが大きかった。
 ところが、デカセギ子弟向けの補習を積極的に利用するなど、満を持して試験を迎えたはずの高校受験に失敗した。「他に行くところがなかったから」という理由で、夜間の定時制高校へと進学先を変えた。
 高校進学という日系子弟の厚い壁が、ここでも高く立ちはだかった。
 「不良ばかりがいるイメージで入学前はビクビクしていた」というが、行ってみれば、様々な経歴を持った同年代から50代までの幅広い年齢層の生徒が集まる場だった。そんな多様性は、これまで外国人というマイノリティーの寂しさが付きまとっていた的野さんにとって、「むしろここに来られて良かった」と感じられる居心地の良いものだった。
 高校卒業後は約4年間工場等で働いた。この経験が、それまで漠然としていた帰伯への思いを明確にさせた。「閉鎖的な環境で毎日同じことの繰り返し。好きな仕事でもないし、給料が大きく上がる見込みもない。夢もなければ、楽しみも自由もない生活にうんざりしちゃったんです」
 その思いがピークに達した11年、日本での定住を優先し、ブラジルに帰る意思のなかった家族のもとを離れ、サンパウロ市に戻った。
 現在は日系の国際引越し代行業者に勤務しながら、児童を対象としたバスケットボール教室の開講のための準備を進める。「より多くの人にバスケの楽しさと素晴らしさを広めたいんです。安定した生活ではないけど、『バスケを通して何かしたい』っていう夢を追える生活は楽しい」と目を輝かせた。(12年9月10日取材、酒井大二郎記者)

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