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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第28回

ニッケイ新聞 2013年3月7日

 しかし、それが幻想でしかないことを小宮は高校三年の時に思い知らされた。小宮には四歳年が離れた勝ち気な性格の姉真弓がいた。真弓の結婚は式直前に破談になったのだ。表向きには相手の男性の心変わりが原因で、弁護士を介して婚約破棄を正式に伝えてきた。相当の慰謝料を支払うから、婚約を解消したいというものだった。
 激怒した父親は婚約者を呼び付けた。家にやってきた婚約者は真っ青な顔をして応接間に座ったが、ずっと下を向いたままだった。
「急に気持ちが変わったで、すむ話なのか。いままで真弓と付き合ってきたのは、遊びだったのか」
「いいえ……。真弓さんは私には過ぎた女性です」
「ふざけたことを言うな。それなら何故婚約を解消するんだ」
 父親は相手の胸倉をつかみ、今にも殴りかかりそうだった。自分の部屋に閉じこもっていたはずの真弓はたまらずに応接間に入った。
「お父さん、もういいの。彼が悪いんじゃないの……」
 娘の声に父親は手を離した。婚約者は真弓の前で額を畳に擦り付けて謝った。
「許してくれ、俺に勇気がないばかりに……」
 真弓は泣いたまま何一つ答えなかった。男は「許して下さい」と同じ言葉を繰り返すばかりだった。
「本当の理由を言え」
 父親は耐え切れず土下座をしている男の顔を蹴り上げた。
「止めて」
 真弓が父親を制止した。
「説得したんですが、両親や親戚が猛反対して……」
「気が変わったなどとふざけたことを言わないで、はっきり言ったらどうなんだ」
「申し訳ありません」
「はっきり言え、うちが部落だから結婚できないと。本当の理由はそうなんだろ」
 婚約者は黙ったまま頷いた。
 仁王立ちに立っていた父親が腰が抜けたようにその場にへたり込んでしまった。
「やっぱりそうか」
 息が止まるような重い沈黙がしばらく続いた。真弓は涙を拭くと婚約者の前に正座して言った。
「顔を上げて下さい」
 その言葉に促されて婚約者が顔を上げた。
「私が部落出身だと、あなたに告げた時、あなたは今どき部落差別なんて関係ないと言ってくれた。たとえ両親が反対しても説得してみせると言ったわね。私もあなたの両親がこれほど反対するとは思っていませんでした。ご両親の気持ちを変えることができなかったのは、それはそれで仕方のないことなのかも知れません。しかし、私はあなたを許しません。何故ならあなたも私を差別したからです」
「真弓、わかってくれ、俺は今でも君のことを愛している。差別なんかしていない」
「いいえ、あなたは差別者です。あなたも両親、親戚に責められて苦しかったと思います。でもあなたは少しの間、苦しんだだけで、私を捨て差別する側に回ってしまった。あなたは私と結婚しても子供はつくらないと言った。何故ですか」
 婚約者は何も答えなかった。
「何で答えないのですか。生まれてくる子供が差別されたらかわいそうだと思ったんでしょう。だれだって差別なんかされたくないもの、あなたがそう思うのも当然だわ。私と結婚して親戚や世間から部落の人間と結婚したと、あなた自身が世間から差別されることを恐れて、あなたは逃げて出してしまった。あなたのとった行為はあなたの両親や親戚と同じです。もう帰って下さい」
 小宮は姉の心から絞り出したような怒りと悲しみに満ちた言葉を、自分の部屋で聞いていた。婚約者が帰ると同時に小宮は応接間に入った。あれほど気丈に自分の思いを言ってのけた姉が父親の胸で嗚咽していた。声を殺し肩を震わせて泣く後ろ姿に、姉の絶望の深さを見た気がした。


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