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デカセギ三都物語=なぜ日本に残ったのか=第8回=愛知編=子供たちに学びの場をー=「日本の伯人に貢献したい」

ニッケイ新聞 2013年4月20日

「ここにいるブラジル人に貢献したい」と切実に語った田中マルリさん

 田中マルリさんの恋人ドウグラス・ナシメントさんは聖市出身、16歳で単身訪日した。大阪を中心に関西の建設現場で働いたが、訪日一年後に父親が亡くなり、それを契機に日本への定住を選ぶことになった。
 30歳近くで愛知県に移って篠田さんと知り合い、ギターを嗜み子供好きだったことから、同校では音楽教師とベビーシッターのような役割で働き始めた。経営危機の影響もあり同校は辞め、スプレチーボをやりながら仕事を探している。
 在日20年になるが「2回ほど帰って、1年くらいブラジルにいたこともあったけど、自分の家は日本だと思った」と祖国への未練はほぼないというそぶりを見せる。
 「何か違うことをやりたい」と思ったマルリさんは06年に姉と訪日した。デカセギとしては最後発の時期だ。2000年に県費留学生として福井で研修をした後、帰伯後は姉の店を手伝った。
 昨年50周年を迎えたピニャール移住地出身だけに、父は戦後移民で母は二世。そして本人は「三世」と自己認識しており、「(記者が)ポ語が話せるなら」と、記者との会話はポ語のみだった。
 訪日後すぐは静岡県島田市で一年間工場労働をやり、浜松でマッサージとエステの学校に2年通った後、ブラジル人が経営する店で働いた。
 コレジオには危機後の11年の夏頃から関わり始めた。ドウグラスさんのギター教室の生徒だったことから、紹介を受けたのがきっかけだ。
 マルリさんに日本の良さを問うと、「ほっとする。電車の中で眠れるしね」と笑った後で、「日本は私にいろんなことを教えてくれた」と真剣な顔つきに戻った。「サンパウロにいたときはいつもこわかった。やっている仕事が嫌だったのもあるけど。今でもこわい」と表情を曇らせた。何があったのだろうかと思わせるそぶりだ。
 同じ質問をドウグラスさんにもすると、少し考えた後で、「日本では他人をレスペイトしている。ブラジルは国自体が未熟で日本のレベルにまだまだ達してない。すぐ文句を言うし、基本的に今のことしか考えていない。日本人は常に先のことを考えていて、変化への対応も速い。すごい国だと思う。ブラジルもいいところはあるから、互いに学べることはたくさんある」と一言一言をかみしめるように語る。
 記者が日本人だから、よけいに日本をよく言おうとしているのかもしれないが、そのセリフを両親や祖父母の住むブラジルの日系社会では、どんな想いで聞くだろうか—。
 生徒が多かったころの写真を記者に見せながら、マルリさんは思いつめたような顔で語り続けた。「不況で色々な(ブラジル人)学校が閉まった。一番影響を受けたのは子供。日本政府はなにもしなかったでしょう。虹の架け橋教室も原則3年で、対応は場当たり的」と政府への不信感を隠さない。
 日本政府が資金を出して行った虹の架け橋教室は、ブラジル人学校に通う生徒を公立校に転校させる準備のような制度であり、元々いつまでも続くものではない。
 「ブラジル人学校同士は連携しない。日本政府と手を取って、一緒に何とかしていくべき」と危機感をあらわにする。「使命感や義務感のようなものを強く感じる。私は、ここにいるブラジル人に貢献したい」
 移住地出身だけに、コミュニティ活動に慣れているのかもしれない。しかし、在日社会ではあまり活発なコミュニティ活動があるとは聞かない。第一、ブラジル人学校が本来ならその活動の中心になるべき場所であり、それががらんどう——という現実は、なにを示しているのだろうか。(つづく、田中詩穂記者)

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