ホーム | 日系社会ニュース | パラグアイ=海の男、日本から南米へ=内陸国に造船所建設

パラグアイ=海の男、日本から南米へ=内陸国に造船所建設

ニッケイ新聞 2013年6月15日

ブラジル日本移民105周年

 特産の大豆を山積みしたはしけ船(バージ船)が連なって、パラグアイ川の穏やかな水面をゆっくりと滑るように下って行く。対岸のアルゼンチンではウシがのんびりと草を食べている。パラグアイ側の湿地と牧場に囲まれた造船所では、地元作業員に日本人や日系人が交ざって溶接の火花を散らしていた。ブラジル西部やボリビアの雨を集めたパラグアイ川は世界遺産イグアスの滝を抱えるパラナ川と合流し、ブエノスアイレス近くでラプラタ川へと名を変える。河口から源流域まで3千キロ以上、大西洋に注ぐ南米の大河はアマゾンだけではない。首都アスンシオンの南約50キロ、パラグアイ川のほぼ中間にあるビジェタの造船所で昨年10月、大統領を迎えて第1号船の進水式が行われた。地球の反対側の内陸国に造船所を建設したのは常石造船(広島県福山市)、広島の海の男たちだった。

 ▽海外に出るべし

 「見渡す限りの原始林。これは一生出られないとあきらめた」。1957年に広島県沼隈町(現・福山市)から両親や兄弟4人と共に、船や鉄道を乗り継いでパラグアイ南部ラパス移住地に移住した馬屋原工(74)は遠い目で当時を振り返る。
 密林を開き、自分たちの食べ物を作るだけで精いっぱいだった。耕した畑に綿花やトウモロコシを植え、余裕ができたのはずっと後のことだ。
 「日本人は大いに海外に出るべし」。56年から58年にかけて、沼隈町からパラグアイには300人以上が移住した。当時町長だった常石造船オーナー、故・神原秀夫が旗振り役を務めた町ぐるみの「分村移住」だ。戦後の貧困の中、農家の跡を継げない次男、三男やその家族が募集に応じた。
 馬屋原らの移住後、日本は高度経済成長に転じ、地元には新幹線も通った。だが、移住地には電気もないままだった。「日本に残れば違う人生だっただろう。でも、来てしまった以上は仕方がない。文字通り身を粉にして働いた」
 農業、養鶏業、車販売、飲食業…。パラグアイでは働き者の日本人への信頼は厚い。
 ▽苦労に報いたい

 常石造船の現地法人社長、藤井信昭(58)は「移民の苦労に報いるため、パラグアイへの進出が念願だった。恩返ししたかった」と熱く語る。2008年に土地探しを始め、造船も農牧業もできる川沿いの広大な土地を確保し、11年7月に整地作業を始めた。自身も含め日本人社員は誰もスペイン語を話せない。だからこそ「沼隈出身者の子孫も雇いたいし、将来は日系人に運営の中心を担ってもらいたい」。
 藤井ら約20人の日本人社員は敷地内の農場暮らしだ。監査役を務める馬屋原の四女の河野千恵(37)らが三食を作り、仕事漬けの暮らしを支える。「祖父や父の故郷から来た人の役に立てれば、これほどうれしいことはない」
 造船所建設にはもちろん商売としての勝算もある。「食糧と資源の需要は増える。バージがどんどん必要になる」と藤井。特産品の、ボリビアやブラジルの鉄鉱石をブエノスアイレス港までに運ぶには、トラックでは不十分だ。広大な南米大陸、10隻以上を連ね一気に運べる川の輸送が今後増えるはずだ。
 ▽感謝を胸に

 パラグアイの大豆生産量は昨年約700万トン。中国への輸出が急増し、生産量は年100万トンずつ増える見込みだ。生産者が豊かになれば、農業機器や車を上流に運ぶ需要も増す。パラグアイ・パラナ水系で稼働する2千隻余りのバージ船は、10年後には6千隻近くまで増えると踏んでいる。
 藤井は「南米の船は米国のお下がりばかり。修繕や新造の需要も多い。大きなビジネスチャンスだ」と目を輝かせる。周辺国に比べ人件費が安いパラグアイ。「南米のへそ」から経済成長が続くブラジルやアルゼンチンに、売り込みを掛ける。
 海沿いの造船所での仕事には慣れている男たちだが、川での作業は初めてだ。船を進水させる入り江に砂がすぐにたまり、しゅんせつを繰り返す必要がある。干満がない代わりに、上流の密林でスコールが降る雨期と干ばつ状態が続く乾期では水位が4メートルも違う。
 内陸国では輸入コストも高い。農牧国のため鉄鋼や工業機械の現地調達は不可能だ。税率や人件費が高いブラジルの鉄よりも「中国から遠路はるばる輸入した方が安い」と藤井はため息をつく。
 だが、そんな苦労も移民の比ではない。「言葉や事情を知る日系人のおかげでここまで来られた」。移住者への罪滅ぼしと感謝を胸に、一から信頼を築き上げていく。
     ■
 パラグアイの日系移住地を訪れると、日本語の読み書きが完璧な二世、三世の若者が多いことに驚く。太鼓や獅子舞など日本の伝統文化を学ぶ児童も多く、特産の大豆を使ったみそやしょうゆ、豆腐は手作りで、日本ではもうなかなか味わえない昔ながらの味だ。
 隣国ブラジルが移民受け入れを制限した1930年代以降、移民が増え、現在の在住日本人や子孫は約7千人。東部イグアス、南部ラパスなどの移住地で農業に従事する人が多いが、都市での成功者も増えている。
 ブラジルなど周辺国に比べて子弟への日本語教育が充実しているのも特徴だ。東日本大震災後は、新たな移住者も出始めた。日系社会では野球が盛んで、プロ野球ヤクルト・スワローズの元投手、岡林洋一はイグアス移住地出身だ。(文・写真、共同通信リオ支局長=遠藤幹宜、敬称略)

image_print