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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇前史編◇ (12)=日露戦争後一転する米国=ルーズベルトとブラジル

ニッケイ新聞 2013年7月9日

 世界史から移民史を見た場合、やはり日露戦争(1904〜5年)は大きな転機だ。セオドア・ルーズベルト米国大統領(1901—09年)は日露戦争当時「親ユダヤ、反ロシア」の立場から日本に好意的だったと言われ、日本贔屓の証拠に彼は米国人初の柔道茶帯取得者で、東郷平八郎が読み上げた聯合艦隊解散之辞に感銘し、その英訳文を軍の将兵に配布したとの逸話まである。
 しかし、まさに彼の時代に日本脅威を煽る黄禍論が起こる。《カリフォルニアの農業において効率的な労働者として、また栽培者として、頭角を現し始めた日本人への恐怖が見られた。そこに、一九〇五年、日本が日露戦争で勝利を収め、太平洋における強力な国家として浮かび上がったことが重なって、アメリカ人の眼には日本人移民が現実の脅威として映ったのであろう。イエロー・ジャーナリズムのハースト系新聞は、「これら日本人移民は一人残らず日本のスパイだ」とセンセーショナルに書き立てた》(『エスニック・アメリア』(明石紀雄(のりお)、飯野正子著、有斐閣選書、97年、172頁)。
 さらに《日本人移民が自分たちだけで群がり、日本語を用いて生活していたことが、外部の人たちの不安の原因となったのはうなずける。見知らぬもの、不可解なものへの恐怖心は容易に植えつけられ、煽られ得るものである。その心理構造を巧みに利用して一般の人々に人種的偏見を植えつけようとする移民排斥論者の側からすれば、日本人の集団居住は格好の例証であったろう》(同173頁)
 米国で排日運動が激化することに対し、日本政府は抗議した。だが、日露戦争終盤に国力を使い果たしていた日本に対し、ロシアとの講話会議をまとめた〃恩人〃ルーズベルト大統領の意向を受けて、日本が自主的に海外労働者の旅券交付を停止することを確認した「日米紳士協定」が1908年2月に締結された。これ以降、日米関係は年毎に悪化の一路をたどる。
 でも歴史には常に裏がある——。日露戦争開戦当時の1904年、米国の「陸海軍統合会議が、仮想敵国を色で表現した長期的戦略計画と言われているカラーコード戦争計画の一環である、対日本「オレンジ計画(O-range Plans)」の作成に着手。その30数年後、この計画は実行に移された」(ウィキ「ルーズベルト」項)とある。
 「日本贔屓」のはずのルーズベルトは、実は日露戦争開戦時から日本を仮想敵国とした戦争計画を練っていた。裏でそんな計画を練りつつ、日露戦争終結を仲介し、その功績から米国人初のノーベル平和賞を受賞した。
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 ルーズベルトは実は伯国とも深い縁がある。自然主義者、探検家としても有名な彼は1909年3月に大統領を辞めたあとアフリカでサファリを行い、帰国後の1912年、大統領選挙に再出馬するが2位で終わってしまい、その失意を癒すように1913年アマゾン流域に遠征を行なった。
 アマゾナス、ロンドニアなど奥地3州にまたがる未知の「疑問の川(Rio da Duvida)」流域を探検するもので、後に「ルーズベルト川(Rio Roosevelt)」と改名された。その遠征隊長は有名なカンジド・ロンドン大佐(当時)で、伯国陸軍が物資補給を担当した国家的探検隊だった。
 だが彼はその時マラリアに感染し生涯苦しんだ。帰国後、1916年に大統領候補指名戦に出馬して破れた。とはいえ《ルーズベルトは真剣に1920年の大統領選で共和党の指名を争うことができるくらい人気があったものの、長引いているマラリアのため1918年までに彼の健康は衰えていった》(ウィキ)。そして1919年に60歳の若さで亡くなった。
 ルーズベルトが一転して日本脅威論者となったことで日本政府が必至に次の移民送り先を探す中で、杉村報告によって〃突如〃伯国が浮かび上がり、珈琲園労働者を必要としていた聖州に白羽の矢が立った。自らの手で米国向け日本移民を抑制した彼が、日本人が次に向かった伯国で病魔に襲われ致命傷を負ったわけだ。(つづく、深沢正雪記者)

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