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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇前史編◇ (14)=国策のような民間事業=国権論者からの太い流れ

ニッケイ新聞 2013年7月12日

 《外交の見地より小村外相が反対せしため、閣議によって政府の方針を決定する事は不成功に終わったが、大澤幸次郎、濱尾新(はまお・あらた)、杉浦重剛、中野武営の諸氏の後援により、同志は自力を持って「東京シンジケート」を創立した》(『パ紙先駆者伝』5頁)。国策としての移植民は見送られ、民間の企業組合「東京シンジケート」という形で移民送り出し事業を練ることになった訳だ。資産家や政治家ら有志が応分の資本を出し合って発足させた。
 例えば、中野武営(1848—1918、香川)は明治・大正期の政治家・実業家で、東京商業会議所の初代会頭・渋沢栄一の盟友として、第2代会頭(1905—1917)を任されていた時期に関わった。渋沢栄一の影響が濃厚に感じられる。
 濱尾新(はまお・あらた、1849—1925、兵庫)は1897年に文部大臣、ちょうど1905年から1912年まで東京帝国大学の総長に任命されており、この間に、東京シンジケート設立に協力したようだ。のちの1924年から枢密院議長までした教育関係の大物政治家だ。
 《大浦は当時農商務大臣であつたから、自己の名義を以てすることを遠慮し、その秘書官たりし女婿堀貞の名義で出資した》(『発展史』下、6頁)ともある。
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 実はこの「東京シンジケート」のメンバーは、日本人初の榎本植民団を送り出した「植民協会」とかなり重なる。植民協会の評議員には三宅雪嶺、杉浦重剛、志賀重昂、陸羯南らなど、当時「国権論者」といわれた論陣がずらりと揃っており、この辺が東京シンジケートも後押ししたようだ。
 重なる人物の代表は、杉浦重剛(じゅうごう、1855—1924、滋賀)だ。彼は青年期には英国に留学し農学校等に学び、1880年に帰国後、読売・朝日新聞の社説を担当し、三宅雪嶺(みやけせつれい)や志賀重昂らと新聞『日本』、雑誌『日本人』(のちの『日本及日本人』の刊行に注力して国粋主義を主張し、「人格高邁の国士」とも評された。
 笠戸丸移民の香山六郎は1916年から大阪朝日新聞のブラジル通信員の辞令を受け、「聖州子」のペンネームで通信を送り、その原稿料を月刊誌『日本及日本人』 の購読料にあてて読んでいたと『香山回想録』267頁)にある。彼は常に移民の側に立ち、その心情を深く汲み取った『聖州新報』を1921年に創刊した。この思想風潮は広く移民に共感されていたに違いない。
 杉浦は東亜同文書院長を経て、1914(大正3)年には東宮御学問所御用掛となり、のちの昭和天皇に帝王学として倫理を進講した人物だ。東亜同文書院長時代に東京シンジケートに関係した。
 ちなみに杉浦重剛が院長を務めた東亜同文書院はブラジル移民との接点が時折り現れる不思議な学校だ。1901年(明治34年)に東亜同文会(近衛篤麿会長)によって上海に設立された高等教育機関で、日本人が海外に設立した学校の中で最も古いものの一つだ。
 例えば卒業生にはのちのブラジル大使・石射猪太郎(いしい・いたろう、5期生)がいる。当地には1940年に赴任し、太平洋戦争開戦後、伯国が国交断絶を宣言したのを受け、1942年7月に交換船で帰国した。
 勝ち負け抗争の脇山大佐殺害事件実行者の一人、日高徳一の父も、創立されたばかりの同文書院で「書生をしていた」(徳一談)という。
 ブラジル移民に通低するひとつの思想的な流れが、この周辺にはある。明治初期から中期にかけて自由民権運動などによって台頭した国民個人の権利を重視する「民権論」に対し、より国家の独立・維持を重要視した思潮が「国権論」だ。明治維新以来の懸案である不平等条約の改正という国家的な大課題をかかえる状況の中、「国権論」への支持が広まり、のちに「国家主義」や「対外膨張主義」へと傾いていった方向性だ。
 おそらく海外植民地建設という考え方は、元々は国権論的な対外膨張主義の選択肢の一つだったのではないか。(つづく、深沢正雪記者)

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