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ざっくばらんに行こう!=ニッケイ新聞合併15周年記念座談会=(4)=合併の経緯、今明らかに

ニッケイ新聞 2013年9月3日

田村吾郎さん(パウリスタ新聞元社会部長)

田村吾郎さん(パウリスタ新聞元社会部長)

■田村吾郎(たむら・ごろう)=1932年生まれ、岡山県美濃郡出身。大阪学芸大教育学部卒、1960年渡伯。アラソイア・ダ・セーラで1年の農地生活後、パ紙に入社し、田中光義編集長時代を社会部長として支えた。1976年に沖本磯満と組んで『週刊時報』を創刊、1990年には独立して『ブラジル経済報知』を発行し、「エンマ鏡」欄で邦字3紙に厳しい批判を続けたが、2010年に心臓疾患の関係で休刊した。


田村=もう20年ぐらい前から「あと数年で潰れる」と巷で言われ続けているが、いまだ潰れていない(笑い)。
深沢=ずばりとお聞きしますが、なぜニッケイ新聞が誕生することになったのか、どうして合併したのか、その当たりの経緯を、当時、パウリスタ新聞専務として合併の交渉も担当した吉田さんに伺いたいと思います。
吉田=
経緯も何も、俺はあんまり知らんよ? というか、俺は元々合併に反対していたのよ。まだパウリスタだけでもやれると、そう思って反対していた。それもあったせいか、あの時は、東京で海外日系新聞放送協会の大会があって、日本への出張でいなかった間に、こっちで決められちゃったんだ。帰ってきたら、もう決まっていた。嫌も何もない。
深沢=じゃあ、合併を決めたのは高木ラウル日伯毎日新聞社長(当時)と?
田村=
パウリスタ新聞の小川パウロ社長だね。
吉田=二人でもちろん決めた。二人とも合併には積極的だった。ラウル社長の弟も含めて推進派だったようだね。
深沢=経営者の方で一方的に決めて、後から編集部や他の部署をくっつけたみたいな感じですか。
吉田=
あとは両者の編集をどうすり合わせていくか、その作業がね、随分続いたよね。3月くらい続いて…。あれは97年の…。
深沢=97年の11月くらいに合併が決まって、3カ月かけてすりあわせをして、98年3月からニッケイ新聞ですね。
吉田=
ちょうどパウリスタ新聞創刊50周年をやった年にね、合併が決まったのよね。奇しくも——というか、それで日毎側にしょっちゅう来てね、双方の編集のあり方の問題というか、編集精神というか、すり合わせの議論をした。俺はパウリスタ的な気分みたいなものを濃厚に引きずってきたし、それは動かさずにいきたいと。そういうような事柄もあって。パウリスタからは私とね、ほか二人くらいが出てたんだけども、日毎はラウルさんと田中光義さん、神田大民さんも出てたかな。合併が決まってから「3カ月ぐらいで新しい新聞をださなきゃいかん」という前提で。
深沢=ああ、パウリスタ新聞元編集長の田中光義さんは、その時には日毎に来ていたんですね。
吉田=
98年3月3日に創刊号が出たわけだけど、その間に空白期間を置くわけにはいかんでしょう。合併したといっても、何日も間を空けることはできないから、次の日には新しい新聞を出さないといけない。ということでね、随分頭をひねりながら作業を進めたことがあったよね。
深沢=やっぱり経営上の問題から、じゃあ合併しようとなった訳ですね。
吉田=
もちろん経営の問題ね。忌憚なく言って、パウリスタも日毎も借金を抱えていた。俺は「借金同士の企業が合併したって、もっとマイナスが膨らむばっかりじゃないか」と「合併しても意味がない」という議論をした覚えがある。ただ確か、私の身びいきもあるかもわからないけど、パウリスタは当時、日毎よりも若干購読者数が多かった。
深沢=そうですか。
吉田=
日毎は「永代購読」を一時期かなり募集したんだよね。
深沢=永代購読って、新聞社が資金繰りに困った時に地方の有力者とか農場主にまとまった金額を出してもらって、代わりにその人が生きている間は新聞をずっと送り続けるという契約ですね。(つづく)

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