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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (44)=輪湖「今のうちに植民増やせ」=海興が実権握る前に自治を

ニッケイ新聞 2013年9月12日

米騒動で焼き討ちされた神戸の鈴木商店(『目でみる大正時代(下)』国書刊行会、1918年)

米騒動で焼き討ちされた神戸の鈴木商店(『目でみる大正時代(下)』国書刊行会、1918年)

 移民会社が合併した海興の中心業務は移民労働者(コロノ)輸送であり、聖州政府の渡航費補助さえあれば、誰でも渡伯が可能だった。だから多くの日本人がとお金を稼いでさっさと帰国しようと考え、「〃金のなる木=珈琲〃のあるブラジルへ」との掛け声に応じてデカセギ渡伯をした。
 しかし、イグアッペは〃植民〃であり、松村栄治のような永住者、理想に燃えた人材が集まった。ただし土地代を前払いする関係で資本が必要であり、希望者集めは難航した。コロノは錦衣帰郷という個人的な想いが強かったが、移殖民事業には祖国に必要な食糧を南米で生産するという「日本の海外発展」という太い背骨が通っていた。その傾向が最も顕著だったのがレジストロ地方だ。
 入植者集めが難航するのを『伯剌西爾時報』編集長として、肌身で感じていた輪湖は《青柳が心血注げるイグアペ植民地は本年から本格的に入植できる事となり》(『流転』161頁)という1918年年頭に、《日本移植民の将来に対し透徹した考へを纏め》(『流転』161頁)るために2カ月間、モジアナ線、ノロエステ線の視察旅行に出かけた。
 その結果、輪湖は「移民の将来」をこう見通した。聖州政府が3人以上の労働力のいる〃家族移民〃と条件をつけたことにより、子供がブラジルで生まれ育つという特性があり、「移民の永住性」を高めるといち早く見通した。さらに、文盲が多いにも関わらず当地で強い存在感を発していたイタリア移民との比較から、〃質より量〃であるとの考えに達し、日本移民の数を激増させれば「日本の海外発展」に益するとの結論に達した。
 青柳の伯剌西爾拓殖会社が1919年4月に海興に合併されるという時勢を読み、「どうしたら理想的な移住地建設を続けられるか」との問題意識を持っていた。《輪湖は時報記者としてイグアッペの理事北島研三医師や後にアリアンサ建設の同志となるイグアッペ入植者・北原地価造らと話し合った結果、海外興業が実権を握る前に移住者を増やし、住民側の自治を強めるしかないという結論になる》(『輪湖の生涯』18頁)。
 海興の営利主義に対抗できる移民住民の自治勢力をイグアッペに増やしておく必要があるとの考えから、祖国に一時帰国して入植募集を手伝う決心をした。1918年5月に「布哇丸」乗って一時帰国し、8月10日に輪湖は神戸港に到着した。日本の土を踏むのは、じつに13年ぶりだった。
  ☆    ☆
 翌11日、神戸の大手米問屋・鈴木商店が暴徒によって焼き討ちをうけた。神戸の宿の主人からその説明を受け、輪湖はこう思った。《昨夜米騒動が起き、神戸の鈴木商店が暴徒の為打ちこわされ、米倉は焼かれたそうですと宿の主人が云ふた。戦争景気で成金が続出したり、造船職工が芸者をあげてドンチャン騒ぎをしてゐる傍らに、米が食えぬと云ふ貧民がうごめいて居る。これが懐かしき祖国日本の真の姿かと彼(=輪湖)は疑った》(『流転』187頁)
 第一次世界大戦で漁夫の利を得たような好景気を一部の商社が享受していた日本だったが、同時に物価上昇によって一般庶民は生活が苦しくなっていた。当時の日本は大陸進出の機会を伺っており、「シベリア出兵」の噂は商機として米商人たちに見られていた。米問屋の売り惜しみによって、米価にはとんでもない値上がりが起きていた。
 そんな社会的歪みがたまり、1918年1月に一石15円だった米価は、6月には20円、7月には30円と暴騰していた。8月2日に寺内内閣はシベリア出兵を宣言し、戦争特需による物資高騰で一儲けしようする商人らがさらに相場を釣り上げ、8月5日には一石40円、8月9日には50円を越え、大阪、神戸、東京など全国数十の都市で同時多発する暴動に発展した。ウィキ「米騒動」項によれば《1道3府37県の計369か所にのぼり、参加者の規模は数百万人を数え、出動した軍隊は3府23県にわたり、10万人以上が投入された》とある。(つづく、深沢正雪記者)

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