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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦後編◇ (99)=カフェ帝国に〃紅茶の都〃築く=「ブラジル茶」として輸出

ニッケイ新聞 2014年1月9日
アデマール・デ・バーロス州統領(任期1947-1951年)

アデマール・デ・バーロス州統領(任期1947-1951年)

終戦後すぐにインドなどで紅茶生産が再開して国際価格が下落し、一気にお茶恐慌が訪れた。《一キロ十三ミルになり、採算がとれなくなってしまった。一キロ十五ミル以下では生産費が上がらないのだ》(『曠野の星』1954年、第22号、55頁)そこで起死回生の策「輸出」を考え、時の州統領に一千コントスという巨額の借財を請願した。

《輸出茶の必要を感じ、時の州統領アデマール・デ・バーロス氏に現在の苦境を訴えたところ直ちに州銀行より一千コントスの融資を個人借用として許可され戦後初の輸出を試みた。六十一トンの茶は無事にアルゼンチンに到着したが、隣国ではペッソの切り下げを断行した際とて一大損失を招き大失敗に終わった。州統領から借用した一千コントスを返済する迄には四ヶ年の歳月を費やした》(『茶の花』200頁)

終戦直後の亜国輸出失敗の苦境を乗り越え、その後の紅茶産業は州統領の期待に応えるようなブラジルを代表する聖州産業に発展した。

71年1月8日付け日毎紙レジストロ特集号によれば、《第2次世界大戦中、インドから紅茶は輸出されず、岡本リプトン原種は苗にして全植民者が移植し、1946年にはレジストロ植民地で280トン、1957年=765トン、1966年=8000トンとなり、うち海外輸出は1966年には2500トンとなった。(中略)フランス政府は、1954年、世界で126人目、ブラジルで3人目という受賞者しかいない佛国全世界産業功労勲章を贈与した》とある。

岡本寅蔵の「Cha Ribeira」は55年現在で、《四百五十域の所有地に四十域(六十万株)の茶樹をもち、萎凋室、揉捻機、発酵室、乾燥機、精選機、貯蔵室、製箱室等を完備し、就労家族六十、フェルンナンド・コスタ、アデマール・デ・バーロス両聖州知事も、岡本氏の工場を参観し、伯国産業のために激勸する所があったという》(パ紙『先駆者伝』544頁)。55年7月に資本金2千コントスの株式会社として登録した。9割は輸出用で、国内消費はわずかなものだった。そのため、為替変動というアキレス腱を紅茶産業は抱えることになった。

1972年に刊行された妻久江の著書には、《現在はすでに二世の活躍となり舞台は大きく中南米を顧客となし、レジストロ茶はブラジル茶と改名するまでになった。その為に、南聖の昔の面影は失せて不毛の地と見捨てられたリベイラ河流域に茶の花が咲いてより、村は街となり市となってブラジルにただひと所の茶の生産地とその名を海の外にも知られるようになった》(『茶の花』202頁)としみじみ綴られている。

1934年にセイロンでアッサム種の種を手に入れた話を岡本寅蔵は常に語り草にしていた。《今もその夫の語り草が思い出される。「俺は、この種が無事にブラジルの土に根を降ろしたなら、何年か後には、セイロンの港にリプトン茶を積む如く、サントスの港から必ずブラジル茶を船出させてみせる」と船長と一等運転手に語った時、お二人共うなずかれ…(中略)月々に積み出す三ツの葉の工場からは二百トンの紅茶、其の三分一はシャ・リベイラ工場より国産のマークもあざやかに、サントス港の岸壁に積み上がられた三千五百箱の茶は大きな起重機に巻き上げられて船のハッチに降ろされていく。それを遠くから見上げる時、我が子の背負う重荷を頼母しと感じるのである》(『茶の花』203頁)。

日本移民はレジストロ地方を舞台にして、世界最大の〃カフェ帝国〃に、確かに新しく「紅茶の都」を築いた。(つづく、深沢正雪記者)

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