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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (29)=初植民地創立の気分に=満ち満ちる明治の気魄

ニッケイ新聞 2013年8月21日

1932年頃の桂小学校の生徒たち『イグアッペ植民地創立二十周年記念写真帳』より

1932年頃の桂小学校の生徒たち『イグアッペ植民地創立二十周年記念写真帳』より

 農業経験も資本もない〃バガブンド〃が、サトウキビ栽培や米作で好成績を収めたことで、後発者に大きな勇気と好印象を与えた。入植者を最初は海興の試験場のカマラーダとして使い、まずは経験を積ませ次に分益農にしていくという制度が成功した。
 半田知雄は《この30家族の成功は、その後の植民にとって大きな刺激となったことはいうまでもない。コンデのバガブンド(そのように地方の人たちは彼らを軽蔑していた)でさえやれたのである。イグアッペへはいって自作農になろう! 移民たちはファゼンダ以外に独立農へ向かう道がひらかれていることに希望を見出すことができた。出稼ぎから定住へ! イグアッペ植民地は、日本移民にはじめて定住への方向を指し示したところに大きな意義がある》(『生活の歴史』347頁)と高く評価している。
 1914(大正3)年5月、入植2年目の桂植民地を訪れた、後の海興支店長の山田揚之助は、次のような感想を持ったという。《とにかく、何から何まで植民地創立の気分にみち、はじめて日本から来た僕には、物珍らしさと同時に、海外植民のなみ大抵な決心覚悟で行われるものではないことを深く思わされた。然し当時の職員も植民者も強固な信念、奪うべからざる面魂、なかなか頼もしく感じられ、深更床に入りて後、僕は破窓をもるる月光を眺めて、独り言い知れぬ感慨に涙を絞った》(半田『生活の歴史』352頁)
 まさにあらゆる意味で、先鞭をつけた存在であり、日本民族の命運を賭けたような心境、いわば明治の気魄が満ち満ちていた。
  ☆   ☆
 桂植民地で最初に栽培されたのは在来のブラジル米だった。川沿いの新開地だったが、けして肥沃ではなく、あまり野菜はできなかったが、パルミットが有り余るほど自生していたし、目の前の河ではマンジューバなどの魚がたくさん採れた。
 サトウキビもすでにあり、ピンガ製造もあった。《酒があり、米があり、野菜の代用品としては美味なパウミットがあり、そのうえ魚が豊富にあったのであるから、これで日本移民もがんばれたのである》(半田『生活の歴史』350頁)
 柳沢ジョアキンは、「父はお金を儲けたら日本に帰るつもりだったが、年々子供が増えて、帰るに帰れなくなった」という。兄弟は15人(男5人、女10人)おり、ジョアキンさんは上から4番目、次男だという。
 「父は『アメリカに比べればここは新天地だ。自由な行動がとれる』と繰り返し言っていた」と思い出す。1924年7月に米国では排日移民法が成立し、米国では日本人が土地を買うことどころか、新規移住まで禁止された。それに比べれば、ブラジルははるかに「自由」だった。
 現在でこそ3時間余りで聖市まで車で行き来できる。だが、柳沢も「戦前はサンパウロ市まで出るのに片道4日間かかったんですよ」と振り返る。レジストロまでの船が一日1便、そこで別の船に乗り換えてジュキアまで一日1便、そこからジュキア線の汽車に乗り換えてサントスへ、そこから聖市行きの汽車に乗り換える。「戦前は船しかなかった。イグアッペからサントスに行く船もあったけど不定期だった。荷物があるときだけ、だから年に1回とか2回とか。普段はリベイラ川を通る船が頼り」という悠長な時代だった。
 柳沢は「多くの人が米を作っていた。最初の頃の桂はすごく良かったんですよ。盛大に運動会とかやってね。とても賑やかだった」と懐かしげに振り返った。(つづく、深沢正雪記者)

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