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麻が結わえた南米との絆=エクアドルの古川拓植=(1)=戦前ダバオ、奇縁で再興=スザノからの転住者も入植

ニッケイ新聞 2013年9月14日

古川義三の銅像

古川義三の銅像

 【秋山郁美エクアドル通信員】戦前からの熱い日本移民の志を引き継いだ男たちによるエクアドル移住——。南米の中でも日本人移住者が少なく、国策としての移民がなかったと言われるエクアドルだが、実は戦後、日本海外移住振興株式会社からの融資を受け、古川拓殖株式会社が事業を始めていた。知られざる「古川拓殖」のアバカ事業と、それに関係する日本人農業従事者の今を追った。

 標高2800メートルの首都キトから車で3時間、途中、耳抜きを何度もしながら西へ下っていくと、サントドミンゴ・デ・ロス・ツァチラス県に入る。県都サントドミンゴ・デ・ロス・コロラドス=通称「サントドミンゴ」では、キトでは見ない三輪のモトタクシーが走り回り、むわっとした空気が漂い、まるでアジアのどこかの国にやって来たような錯覚をおぼえる。
 そこからさらにアバカやパームヤシのプランテーションの脇を40分、未舗装の道を20分奥へ進む。ふと、拓けた空間にすっきりと整えられた芝が広がる。
 芝が象る文字は「FPC」(Furukawa Plantacions C.A.)。戦前、フィリピン南部ミンダナオ島のダバオにおいて、南洋一の日本人社会を作った古川拓殖のことだ。同社は古川義三氏(1888—1985)によって1914年にダバオで設立され、「マニラ麻」とも呼ばれるアバカの栽培を始めた。
 当時フィリピンでは同社を筆頭に、日本人のアバカ産業はめざましい発展を見せた。1930年代後半、ダバオには日本人が2万人も住み、アバカも同国の主要輸出農産物となり、輸出総額の1位を占めるまでになった。しかし、敗戦に伴い、フィリピン移住者の全財産は没収され、強制送還となった…。
 戦後、ようやく移民政策が再開された。すでに70歳になっていた古川だったが、日本政府の要請で1959年にアマゾンへ視察に向かった。アバカ生育条件が満たされたエクアドルのケベド近くで、古川は米国が植え付けたアバカがある試験農園を視察した。
 なんとそれは——1925年に、古川が米国に依頼されてダバオから送っていた苗の〃子孫〃であった。こうした奇縁からアバカ再興の地としてエクアドルが選ばれた。
 あの古川拓殖がエクアドルでアバカ事業を再興すると知られると、ダバオの時代の強者たちが次々に名乗りを挙げた。中にはすでにブラジルに移住していた者もあったが、アバカへの思いに燃えて数家族が転住した。
 半沢勝さん(71)もその一人だ。父の故金重さんはダバオ時代の古川拓殖におり、勝さんはダバオ生まれ。引き上げ後は福島に住んでいたが、戦後移住で62年にサントス丸で渡伯。聖州スザノ市へ入植し養鶏や野菜作りをしていた。
 しかし、5年後に古川がブラジルまでエクアドルへの希望者を募集にやってきた。邦字紙に出た広告を見て一家はエクアドルへ移住することを決意した。
 「エウ・エスケシ・ポルトゥゲース」と言いながら豪快に笑う半沢さんは、まだ現役でアバカの林の中をざくざくと歩く。(つづく)

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