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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (50)=続々と発足する自治組織=果敢に米作試みるが下火

ニッケイ新聞 2013年9月20日

原始林を切り開いて米作をする当時の農家の様子(『在同胞活動実況写真帳』竹下写真館、1938年)

原始林を切り開いて米作をする当時の農家の様子(『在同胞活動実況写真帳』竹下写真館、1938年)

 《各所に水田も出来、又所々に水車も回る様になり、日本の田舎を偲ぶ風情も見られる様になった》(野村『思い出』45頁)という具合で、レジストロはまさに〃日本村〃になろうとしていた。
 同植民地には伯剌西爾拓殖会社時代から「会計庶務部」「植民部」「試験農場」「アルマゼン部」の設備があり、職員が切り盛りしていたが、1919(大正8)年4月、海外興業に合併された。
 同年8月31日の天長節に自治組織「共拓会」が発会式を行なった。植民地の福利増進を目的としており、選挙の結果、白鳥堯助(あきすけ)が初代会長に選ばれ、青柳郁太郎を名誉会長とした。植民地を27区に分け、各区に正副2人の委員を置き、会員数は271人だった。この共拓会は後に「郷」(初代郷司=仁戸田信吉郎)と改名した。
 1920(大正9)年頃には植民地内のあちこちに青年会が発足し、翌1921年に「レジストロ連合青年会」(初代会長=野村隆輔たかすけ)が組織された。《当国に於ける連合青年会の最初のものと思われる》(野村『思い出』22頁)
 海興は河港のすぐ近くに「アルマゼン海興」を建て、イグアッペ植民地の中でもレジストロに最も力を入れ、最初から事務所をここに置いた。1922年には当時南米第一と言われる、精米能力(200袋/日)の精米所まで設けた。それ以外に、職員住宅、医局、植民の宿泊所、売店などを作って体制を整えていた。
 《レジストロ植民地の属していたイグアッペ郡は有名な米の産地で、聖州奥地の陸稲米とは比較になら優良種が生産されていた。米作には開闢以来の経験のある瑞穂民族を導入すれば大いに成績を挙げ得るものと思って、会社(海興)は第一計画として米作を奨励した》(野村『思い出』45頁)
 戦前の日本では、ブラジルの米作をこう宣伝していた。《米は一アルケール(約二町五反歩)で普通平均七、八十から、多くて百五十俵穫れる処もある。されば仮に十アルケール作るとすれば一作に一千俵の収穫となるが、昭和十三年の相場は一俵伯貨五十ミルレースであるから、都合五十コントスとなり邦貨の一万円になる訳だ。之が一回の収入であるから決して悪くない。をまけに無肥料だから丸儲けである。ブラジルの米作は事業も大きく男性的であり、又壮観である。誰しも茫々大海の如き大米園を眺めて、一驚せぬ者はなからう》(『在伯同胞活動実況写真帳』竹下写真館、1938年、40頁)
 同地生れの小野一生(かずお、84、二世)も「戦前は米が多かった」と振返る。「以前からセッチバーラ米とかイグアッぺ米があったが、僕らが子供の頃(大戦前)に田んぼに植えていたのは何といっても蓬莱米と愛国米。愛国米は美味しかったけど毛があってね。(脱穀の時に)上から振って叩くと毛が背中から入って痛くなるんだ。愛国米の方が粒が小さくて美味しかった」。
 「蓬莱米」は日本の食糧不足を解消するために、台湾で生産できるように現地種とジャポニカ種と掛け合わせる長年の努力の結果に作り出した品種「台中65号」のこと。海興が籾を持ち込んで植民者に分けたのだろう。
 このように稲作を地域経済の中心にすべく何度も試みられたが、最終的には生産は定着しなかった。《度々の洪水に収支償わず、段々と米作も下火となり、植民地全体としては単に副業程度のものとなり、最初の期待は完全に裏切られる様になった。会社としては何とかして大精米所を運営せんと策を講じたが何ら効果なく〜》(野村『思い出』45頁)
 米作に変わる作物として海興が目を付けたのは、砂糖キビだった。(つづく、深沢正雪記者)

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