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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (73)=長野、教会、米、バナナ=本間剛夫 日本初の勝ち負け小説

ニッケイ新聞 2013年11月14日

那須野秀男

那須野秀男

 那須野秀男さん(83、二世)=レジストロ在住、3月取材=も両親が長野県出身で1918年に〃信濃村〃第4部に入植した草分け組だ。
 「長野では『ブラジルには金のなる木がある』って宣伝があったんですよ。だから長野からまとまって来た」。教会の第2期工事の真っ最中、1929年11月に那須野さんは生まれた。
 「祖父は長野県で農家だった。高校を出て、ブラジルは土地がたくさんあるからって結婚してから渡伯した。ですから兄弟はみなブラジル生まれです。親は日本では仏教だったが、こちらでカトリックになった。日本政府が補助金を出してフランシスコ・ザビエル教会を作ったので、そのフンダドール(創立者)の一人になり、そこへ通った」と振り返る。
 「父は米作りを目指し、最初から土地を買って永住するつもりで来た。最初は10アルケールだったが、1929年頃には600アルケールまで増やし、200アルケールにバナナ2万株を植えていた」。残った者は近隣脱耕者の土地を集めてどんどん拡大していった。長野、教会、稲作、バナナ作り——まさにレジストロの歴史そのものだ。
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 サンフランシスコ・ザビエル教会に赴任したアロイシォ・ローゼン神父は、《漢語の知識は日本人を凌ぐものがある》(『40年史』375頁)ぐらいの珍しい人物だ。南部二州やリオ、ミナスのドイツ人集団地に伝道に行って義金を募り、第二期工事費用を調達して1933年には完成させた大功労者でもある。
 しかし、1930年前後、一部連邦議員の排日運動に反発した邦人社会内では、排斥材料を提供する内部密通者がいるのではと、疑心暗鬼する者もあった。《当時ブラジルの一部の国会議員の中に、日本人排斥運動が台頭したことがあった。ローゼン神父は機会あるごとに日本人擁護の立場をとっていたが、排斥資料が余りに穿ち過ぎているところから、資料提供者が神父であるかのように邦字新聞(日伯新聞)で誤報されたのは気の毒であった》(『緑の地平』1978年、日伯司牧協会、9頁)という苦労までした。
 このローゼン神父らの努力で献堂された同ザビエル教会は、1929年に幼稚園を始め、33年には「パードレ・フェデリコ学院」を開設し、ローマ布教庁から10コントの補助金まで受けた。この学院の初代日本語教師が小菅剛夫だ。
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 海興が1931年に創立したエメボイ農事実習場の第一期卒業生の一人で、34年11月に赴任した(『エメボイ実習場史』増田秀一、81年、290頁)。同実習場は、海興が拓務省から補助金を得て、日本人社会の将来の中堅リーダーを育成するために設置した特殊な植民学校だ。
 日本で大卒若者ら150人から厳選された33人が一期生となって送られ、両親が子弟の伯国永住を許可する旨を記した証明書を提出するという、一般移民とはまったく異なった〃学生移民〃だった。
 利益重視の海興において、多大な投資が必要ですぐに利益を生まない教育事業はまったく異色のものだ。井上雅二の強い肝いりで設立され、国粋的な志向が教育方針には含まれていた。
 小菅は、桂太郎が創立した拓大出身で、エメボイ第一期生となった。さらに海興直営のレジストロ植民地の教会付属学校に教師として派遣されるとは、まさに明治の日本精神による〃海外発展〃一筋の経歴だ。同付属学校で2年間、日本語教師をした後、ヴァルガス政権の外国籍教師を禁止する法律施行で職を失う。そしてなぜか、永住を誓ったはずなのに開戦直前41年に帰国した。
 彼は51年に宝文館から「本間剛夫」名で長編小説『望郷』を出版した。日本側刊行物としては初の、コロニアを舞台に勝ち負け抗争を描いた本格小説だった。(つづく、深沢正雪記者)

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