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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦後編◇ (107)=海興職員の父「情熱もう一度」=何も語らぬ母の秘めた想いは

ニッケイ新聞 2014年1月21日
晩年の黒瀬泰・松枝夫婦(京田三恵所蔵)

晩年の黒瀬泰・松枝夫婦(京田三恵所蔵)

同概要によれば、70年代に始まった『リベイラ河流域総合開発計画』の総工費は1億2630万ドルという壮大なものだった。パ紙82年12月21日付けでも「リベイラ流域で田植え 米作も高収量予想 日伯協同開発実る」などと日本の協力で設置された排水ポンプが威力を発揮していると報じた。機材供与は5億4千万円、日本側の協力総予算額は8億円と書かれている。

同概要の《地形とその利用》には「高台=茶、柑橘類、アバアチ、平坦地=バナナ、蔬菜、平坦低地=稲、蔬菜」とやはり稲を想定しており、現状での《土地利用状況》は「合計でも4%に過ぎない」といかにも可能性が高いように書かれている。

しかし、結局は「具体的な計画立案の段階に至っておらず、未だマスタープランというよりも、むしろ構想程度にとどまっている」(同概要)となっており、結局は実現されなかった。

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イグアッペに父の思い出を訪ねて行った京田三恵

イグアッペに父の思い出を訪ねて行った京田三恵

この計画の話を新聞で読んで、43年ぶりに日本から駆け付けた人物がいる。戦前の海興職員で、レジストロに架橋と水力発電所建設のために1929年から1934年まで6年間も滞在した技師の黒瀬泰(とおる、岡山)だ。75年当時すでに75歳だった。

75年11月12日付け日毎紙は「情熱もう一度燃え上がらせたい」「製作者の黒瀬さん来伯」とトップ記事で報じている。リベイラ河開発計画について当地の邦字紙で知り、《あまりの嬉しさに居てもたってもいられずブラジルに飛んできた》とある。この間の伯国の変貌ぶりについて《日本での明治初期から現代までの発展をこの四十年間にしたみたいですね》と語っている。

黒瀬泰の娘の京田(きょうだ)三恵(みえ、65、岡山)=千葉在住=は、「父は海興の職員として、水力発電所建設などのためにレジストロに参りましたが、資金難とのことで図面作成までで、志半ばで帰国しました」と聞いている。海興現地所長の相良三介の依頼で、1929年に「リベイラ地帯水力発電候補地実地調査報告書」を調査作成し、翌30年にはジョインビレ水力発電所などを視察して回り、「リベイラ河流域水力発電開発計画」として海興本社に送った。

ところがその間、1929年にはニューヨーク株式市場が大暴落、世界大恐慌が起きていた。《相良所長が日本の本社へ水力発電所の建設資金とその技術協力を申し入れたが、時期が悪かった。世界的な大不況にあたっていた。当時のブラジルでは主力のコーヒーを価格安定のためにサントス港などの輸出港から海に投棄したり、焼却するなど四苦八苦の状態。日本でも米騒動があるなど、何処の国も他の事を構っていられなかった。まして、海の物とも山の物とも分からない植民地の開発の援助は、当時の日本は余りにも無力だった。所長以下、機が熟するまではと、涙を呑んで断念した》(『金銀のすすきにのりて風祭り』黒瀬泰・松枝、自家製版、1989年、54頁)

さぞや黒瀬は失望しただろう。そんな1930年8月にジュキアで大バナナ農園を経営していた古谷重綱(元アルゼンチン公使)と出会い、その経営に参加した。

京田は「父は適当なところがあればレジストロで土地を買って住もうと思って、お金を持っていったが、ここぞと思うところには巡り会えなかった。『レジストロはいい町だ、戻りたい』と一生言い続けていました」と思い出す。

一方、母の松枝(鳥取)も当時、海興本部が発行していた雑誌『植民』編集部で働いていた。「母は思い出話も、当時の状況もナニも話してくれることはありませんでした。母の所には、ずいぶんいろいろな方が、いらしたのですが、誰にも一言も話すこと亡くなりました。母のジャーナリストとしての生き方だったのだろうと思っております」。母の複雑な心境をそう振り返る。一体、何があったのか。(つづく、深沢正雪記者)

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