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ハイカラさん海を渡る=移民画家 大竹富江の一世紀=(3)=「私は夢を追います」宣言=40歳遅まきのスタート

ニッケイ新聞 2013年11月23日

次男のリカルドさん

次男のリカルドさん

 次男のリカルドさんは好奇心の旺盛そうな目に、エネルギッシュな話しぶり。「セニョール」と呼ぶと、「今何ていった? ヴォセでいい」と訂正される。年を重ねても溌剌としている所は、富江さんと同じだ。
 リカルドさんは「あえて西洋的教育を受けた」と感じているようだが、富江さんに「日本語を教えたい」との思いがないわけではなかった。「家庭教師まで準備をしたけど、戦争が始まって日本語使用が禁止されたから、日本語を習っても、もう使わないだろうと思った」と語っている。
 学校選びも「近くて便利で評判がよかったから」という合理的な判断からで、キリスト教信者だったからではない。ちなみに富江さん本人は「神様を信じる人もいるけど、私は無宗教。私は私を信じたらいいと思っています」という〃自分教〃を標榜している。
 でも結果的に二人の息子はブラジル人として育ち、建築家、文化事業者として母に負けず劣らず名を馳せるようになった。
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菅野圭介さんと富江さん

菅野圭介さんと富江さん

 「人生にとってはファミリアが大切」と潔く妻、母としての道を選び子育てに専念したが、40歳を迎えた1953年、念願の画家として遅まきのスタートを切った。
 「絵描きになりたい」との情熱がたぎり続けていた富江さんは、毎月日本から「美術手帳」「アトリエ」など雑誌を取り寄せては、熱心に読んでいた。そんなとき、日本から訪れた洋画家菅野圭介さん(1909—63年)が放った「子供なんて放っといても成長する。好きな仕事をしなさい」との一言に、「それもそうだ」と、開眼したかのように夢を追い始めた。
 初めは数人の婦人とともに、自宅の8畳ほどの部屋で菅野氏の下、絵筆をとった。当時15歳だったルイさんと、まだ10歳にも満たないリカルドさんには、「もう大きいのだから自分で考えて、自分が良いと思うように生きなさい」と言い聞かせて。
 実質的な「私は夢を追います」宣言だ。
 その頃ブラジル美術界では、40年代末に始まった抽象画の勢いが伸びだしていた。彼女が一時所属した日系画壇「聖美会」(53年設立)でも抽象画を描くメンバーが現れ、早くからサンパウロ・ビエンナーレに出品していた間部学や福島近氏らがブラジル抽象画家の代表者として知られるようになっていた。人の勧めもあって具象画から始めた彼女が、瞬く間に抽象画へと移行したのには、もともと抽象画が好きだったことに加え、こうした背景もあったのだろう。
 まだ幼かった次男リカルドさんの脳裏には、母がキャンパスに向かう姿がくっきりと残っている。「縦横2メートルもないコーナーで、毎日自分で三脚を立てて、布地を張ってキャンパスを作り、仕事に専念していた。絵を描き始めた頃、もう母の心の中にはたくさんのイメージが渦巻いていた。技術的にもすごく上手だった」。
 リカルドさんも学生時代から文化が好きで、新聞を作ったり展示会をしたり、文学コンクールを企画したりと様々な文化活動に取り組んでおり、学生自治会の会長にも選出されたという。はじめはグラフィック・デザイナーとしてスタートを切ったが、後に聖州文化局長、サンパウロ文化センター初代センター長、シネマテカ・ブラジレイラ所長など文化施設の要職を歴任した。長男ルイさんもブラジルを代表する著名建築家となった。明治日本から勢いよく飛び出した〃ハイカラさん〃の血は、脈々とテーラ・ロッシャへと受け継がれた。(つづく、児島阿佐美記者)

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