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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇大戦編◇ (91)=岡本に亜国から転住の誘い?=聖州農業生産の6割占める

ニッケイ新聞 2013年12月14日

 トリブナ43年7月16日付けには《陸軍予備役将校が海岸部の警察署へ》との小さな記事が出た。イグアッペ郡にも触れており、国家保安局のコリオラノ・デ・ゴイス(Coliolano de Gois)が海岸部を視察した後、この地域の治安の重要性を鑑み、陸軍予備を警察署長に任命した件が報じられている。この際、ドップスのメーロ少佐とも会合した。《海岸部からの枢軸国民退去という新しい処置により、国家保安における新体制が始まった》とし、警戒を厳重にすることにより、収税や農産物生産を現状のまま維持する、日本移民をそのままにする方向に舵をきった。
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 フォーリャ・ダ・マニャン紙等で記者をしたアゴスチンニョ・ロドリゲス・フィリョは著書『Bandeirantes do Oriente』(Agostinho Rodrigues Fiho、1948年、以下『BO』)で、農業という側面から日本移民立ち退き、強制収容の非現実さを論じている。岡本寅蔵を、ブラジルにコーヒー樹をもたらしたアメリコ・メーロ・パリェッタの紅茶版人物と高く評価した。
 常に紅茶の輸入大国だったブラジルが1938年の輸出を始めた。最初は9トン385キロに過ぎなかったが、翌年40年には91トン、42年には203トンと急増していたとある(97頁)。英国が欧州大戦に巻き込まれ、インド産が入らなくなった間隙を縫って、ブラジル紅茶が世界市場に浸透し始めていた。
 さらに99頁には、戦争中に岡本農場に清算の政府命令が下ったが、経済保護特別委員会の特使が農場を視察した結果、数日後にその命令が撤回されたとある。「我が大統はその法令が意味することを理解し、別の法令をもって撤回した」。
 コーヒーに次ぐ輸出作物になる可能性がある紅茶。それを生産する日本人をレジストロ周辺から追い出すことの意味が、この時点でヴァルガスに理解されたに違いない。岡本寅蔵が戦前、紅茶をレジストロに根付かせていなかったら、強制立ち退き検討の際、不利な立場にされていただろう。
 岡本の妻久江は『茶の花』の中で、《一九四四年にはブラジルもアメリカに付随して戦争圏内に入った為めに敵国人となり、小さいながらも新産業のシャ・リベイラ耕地は直ちに財産凍結令に巻き込まれ、二十四時間以内に耕地は凍結されてしまった。其れより二年間は政府の事業となって慣れぬ役人が耕地を支配して荒れるにまかせていた。終戦と同時に平和の鐘は我が耕地にも響き渡り、凍結令の解除一号を許されて再び立ち上がることができた》(199頁)と記している。
 しかし、茶園と工場が凍結されているのは苦しかった。《連邦政府から派遣された役人が三人で管理をし、一人が五コントの月給で三人で十五コントスを支払わされ、岡本氏は月二コントの家族生活費だけが認められた。自分の自由になるものは寝室の物品だけで、それ以外は全部政府の管理に置かれてしまった。こうした状態が一年八カ月続いた。自分の農園、自分の工場でありながら、何一つ自分で運営できないので、次第に衰退し破産の瀬戸際まで行ったが、岡本氏は「断じて破産させてはならない。レジストロの茶が駄目になった、再び火の消えたような希望のない暗黒な植民地になるのだ。茶は自分の命なのだ」と、政府の管理人に献身的に協力して事業を護っていった》(『曠野の星』1954年、第22号、55頁)という状態だった。
 隣国アルゼンチンは45年のギリギリまで連合国側に付かずに中立を保った。翌46年に当選したペロン大統領は、戦争中に伯国政府が日独の枢軸国移民や企業家を迫害する様子を見て好機だと思ったようだ。「ミッショネス州で薄荷、ラミー、紅茶、穀物振興を目指して5年計画が立てられた。養鶏場もそこに入るだろう。聖州にいるような技術者が足りない。ア国特使は紅茶、薄荷、ラミー、棉、養鶏に詳しい日本人農業技師に接触した」(同101頁)。
 もしペロンが期待するように、岡本らが亜国に転住していたら、戦後のブラジル紅茶産業はどうなっていたか。(つづく、深沢正雪記者)

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