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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦後編◇ (106)=青柳以来の〃米の夢〃再び=リベイラ河流域総合開発計画

ニッケイ新聞 2014年1月18日
明治村にある久保田邸(「アミザーヂ」姉妹都市協会ニュース第23号4頁)

明治村にある久保田邸(「アミザーヂ」姉妹都市協会ニュース第23号4頁)

入植60周年(1973年)に際して、愛知県犬山市にある世界中の建築物を集めたテーマパーク「明治村」から、同祭典委員長だった山本周作宛てに、ブラジル最初の入植地の住宅を《ブラジル植民の記念館として寄贈してもらいたい》(『60年史』147頁)と要望する手紙が届いた。1919年にレジストロに建設された久保田安雄(長野出身)の旧邸宅を解体して運搬し、船で移送し、半年がかりで移設した。明治村のハワイ移民館のそばに建てられているという。

久保田安雄さんご夫妻(「アミザーヂ」姉妹都市協会ニュース第23号4頁)

久保田安雄さんご夫妻(「アミザーヂ」姉妹都市協会ニュース第23号4頁)

久保田は第一回植民団の一人で、1917年6月に神戸港を出港した草分けだ。茶園の造成および製茶工場の成功者だった。青柳郁太郎は桂植民地への入植者集めにあたって、当地経験を重視し、あえて脱耕者が集まったコンデ街で募集した。〃コンデのバガブンド(放浪者)〃と呼ばれていた、農業経験こそ少ないが、大工などの技術者が多く入植した。そのために同地方には和伯折衷の二階建て木造建築という独自の〃建築文化〃が生まれた。それが60年後に評価されて、祖国に移設されることになった。

明治村での久保田邸開館式に出席した小説家の石川達三(1905―1985、秋田)は、73年12月発行の月刊『文藝春秋』に感想を寄せた。

1930年に「らぷらた丸」で渡航した経験を題材に、帰国後に小説『蒼氓』(そうぼう)を発表し、1935年に第1回芥川賞を受賞したあの石川だ。『文藝春秋』から『60年史』に次のように転載されている。《私は関係者と並んで開館式のテープを切りながら、はるかなるブラジルの農園のバナナの葉のそよぎを聞き、珈琲の収穫どきの赤土の土ぼこりの匂いを嗅いだような気がした》(148頁)。

さらに《小説「蒼茫」が……芥川賞に選ばれたのは、昭和十年であった。あれから四十年の歳月が流れ、その四十年の間に一つの時代が過ぎ去った。ブラジル移民の苦闘の歴史の半世紀が過ぎ去ったと同時に、何もかも過去にならうとしている》(同148頁)と想い入れたっぷりに締めくくっている。

☆  ☆

日本は食糧難に陥るたびにブラジルに目を向けてきた。深刻な食糧危機にあえいた終戦直後、初の民間大使として1952年に着任した君塚慎駐伯大使も、伯人政治家に薦められるまま、パラー州グアマ連邦移住地への米作移民送り出しを熱心に唱導した。だが、送り込まれた移民は辛酸を舐めた――。桂植民地に始まる「ブラジルで移民が米を作って日本へ」というアイデアは亡霊のように忘れた頃に現れてくる。

1973年に第一次石油ショックによる物不足に加え、米国による大豆禁輸で世界の食糧不安が一気に広まる中、1974年9月に田中角栄首相が来伯し、ガイゼル大統領との間でセラード共同開発の覚書が調印された。この頃、実はリベイラ河沿岸でも大規模な開発計画が立ち上がっていた。

☆ ☆

☆  「どうも日本人はコメにこだわりますな」。福澤一興さんは、いつもの口調で当時のことを振り返った。70―80年代にJICAが専門家を派遣して技術支援し、『リベイラ河流域総合開発計画』というプロジェクトが練られた。「冠水地を堤防で囲って米を作ろうという話ですよ」と福澤さんは要約する。

当時の計画概要『ブラジル・リベイラ流域の概要』(3枚)を見るとかなり巨大な構想だ。リベイラ河沿岸の流域面積は2万3千平方キロもあり、九州の半分に相当する。ここに高さ55メートル、幅1千メートルの「エルドラード多目的ダム」を建設し、12万4千キロワットの発電をし、ダムの下流域の洪水被害を無くすとともに「約20万haの農地開発が期待される」というものだ。(つづく、深沢正雪記者)

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