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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (57)=大戦余波で鉄道延長中止=見通し困難な当地の発展

ニッケイ新聞 2013年10月1日

サントス港から出発する汽車の様子

サントス港から出発する汽車の様子(『在伯同胞活動実況写真帳』竹下写真館、1938年)

 後に海外興業ブラジル支店長(1930—33)まで務めた白鳥尭助(あきすけ)は、イグアッペ事務所長時代の1919(大正8)年3月21、28日付け『伯剌西爾時報』に、『イグアペ植民地』と題する勧誘記事を書いた。
 1918年末現況を説明し、その中で「植民地将来の交通」項で、第一次世界大戦のために仕方なく工事を延期していたが、ジュキア線は近いうちにレジストロまで伸びると明言し、陸路海路ともにサントスやリオに出荷するのに至極便利な場所になるとの楽観的な展望を描いてみせた。
 《『サントス』港から起る現在の鉄道の終点は『ヂユキア』と云ふ所にありまして、『サントス』より百六十二基米突(きろめいとる)であります。『ヂユキア』から『レヂストロ』植民地本部迄は鉄道の予定線で申しますと、僅に十六キロメートルでありますが、当時欧洲戦争のため延長工事を中止して居りましたが、州政府でも『リベイラ』河々岸迄の延長を必要と認めまして、此上工事の延期を許さぬ意向の模様でありますから、近き将来に完成する様になるでしやう。左様になりますれば『サントス』港と植民地間の距離百七十八基メートル、朝植民地を発して夕方には『サンパウロ』市の客となることも容易となります。
 現在植民地附近の産物は多く『イグアペ』港を経て海路『サントス』又は『リオ』市へ出るので、運賃は陸に比し低いのでありますが、又前記の鉄道完成の上には積替や時間の点に於て著しい利益を得ることとなり、地方的生産物は別として、都会向きのもの、『サントス』直送の品等には便利更に加はり、海陸両路の利備はりますことは此植民地の将来の望ある点の一つであります》(国会図書館サイト「ブラジル移民の100年」より)
 同鉄道はジュキア駅からセッチ・バーラスを通って、レジストロまで繋がる予定だった。1920年に開始されたセッチ・バーラスへの入植者には、特にその点が海興から強調して説明されていたという。
 もちろん一世紀後の視点からすれば、ジュキア駅までしかできなかったことは明白だ。当地の〃将来見通し〃はかくも難しい。この見通しの甘さがどれだけ植民者を泣かせたか…。
 北米で学んだ青柳だけに、南米の鉄道王ペルシバル・ファルクァールへの期待が大きすぎたようだ。彼が中心になって南部三州の鉄道開発をしていた経緯は第19回で書いた。主にフランスで資本を集めて投資し、1918年まではブラジル国内で民間最大の投資家であった。そのフランスが第一次世界大戦で荒廃し、南米投資どころではなくなっていた。
 ポ語ウィキ同人項には《第一世界大戦の勃発とともに、融資財源の流入が中断し始め、〃ファルクァール帝国〃は脆弱化しはじめ、巨額の借金を抱えるようになった》と明記され、驚くことに《伯国鉄道会社のグループは徐々に汚職などが目立つようになり、1917年にはコンコルダッタ(和議申請)となった》とまである。
 つまり、青柳が「あと数年で亜国まで繋がる鉄道が完成し、南部諸州が大発展する。そこに近い好立地」としてレジストロを選んだことが、「ファラッポス戦争」に続き、大戦勃発で完全に裏目に出ていた。青柳にとって大きなショックだったのではないか。もちろん、青柳が編纂した『発展史』には、そうとは書かれていないが…。
 その後、1940年のヴァルガス独裁時代に同社の全資産は接収され、パラナ・サンタカタリーナ交通網(RVPSC)に統合された。あの北米が誇る南米有数の国際的な企業ですら、失敗したのだった。(つづく、深沢正雪記者)

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