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連載小説=子供移民の半生記=家族みんなで分かちあった=異郷の地での苦しみと喜び=中野文雄=4

 私たちは早速バナナやみかんに手を出し、さっきまでの疲れと気落ちもどこへやら、腹いっぱいにご馳走になり、いつの間にか荷物にもたれかかって眠ってしまった。肌寒さを感じ目が覚めたとき、「コケコッコー」と一番鶏の鬨の声。ブラジルにも鶏が居て、日本の鶏と同じ様にうたっているのが嬉しかった。早く外に出てみたかったが、ブラジルには毒蛇がたくさん居ると聞いていたので暗い外に出るのは恐かった。ふと気が付いたら両親は赤い目をしていて、まんじりともせずに子供たちの眠りを見守り、行く末を案じ、夜通し語り合っていたらしい。とんでもない所に子供たちを連れて来てしまったと後悔していたのだろうか。子供心にも淋しさを感じた。
 白々と明けかかると、昨夕、沢山の果物やさつま芋などを届けて下さった山崎さんと小沢さん夫婦が、仕事に行く前に立ち寄って下さり、「次の日曜日には何かと手伝ってあげるから」と言ってまだうす暗いのに畑仕事に出て行った。
 明るくなると昨日の監督さんが、食料を耕主の家に取りに来るようにと伝えに来た。2時間ほどして親父と兄貴が白い袋をかついで帰ってきたのだが、あまりよい顔をしていない。持ってきたものは15キロの米、それも日本では見たこともないような屑米、ブラジル人の常食と言うフェイジョンという豆、うす黒いマンジオカの粉、缶に詰まった豚の脂、どろついた黒砂糖、塩、石油1リットル、そして石鹸。
 これが当分の食料で、月初めには指定の店で買い物が出来るとの事だった。先輩移民の山崎さん、小沢さんの話では、ここから4キロ先の一軒しかないお店なのだが満足に買い物の出来る所ではないらしい。せめてもの救いは、野生のさつま芋やマンジオカという木芋があること、それに道辺にころがって居る唐瓜や果物などで命をつないでいると知った。
 義務農年を終えたら何とかして自立すること、しかし、借金があればこのコロノ(当時のコロノとは半奴隷制度の使用人だった)を続けるより外に方法がなく、外人耕地では命を賭けて夜逃げすることも多くあるとの事。幸いにして日本人耕地ではそれまで非道ではないと言う。
 1月中に小屋も片付き、2月から畑仕事が始まった。農年なかばなので決まった仕事はなく、今日はあれをやり明日はこれと雑用ばかりの日雇仕事。おやじと兄貴は2ミル500。僕は13歳なのでその半分、弟は9歳で800レースが日当だそうだ。小沢さん、山崎さんの話では、この金額では到底食っていけないが、もうすぐ収穫が始まるので、それまでの辛抱だと言っていた。
 2月の日差しは焼け付くようで、慣れない者には耐えがたい暑さだ。夕方には肌が真っ赤になり、シャツは汗で塩がふき、板のように固まって肌を傷つける。風呂はないので小川まで行き、石油缶で水を浴びるだけ。肌をこする事もタオルで拭くこともできないのだが、猛暑のため案外気持ちがよい。良くした物で2週間ほど過ぎると汗のための自衛作用か、或いは慣れてしまったのか、3月の末頃には肌も日焼けで赤黒くなり、以前ほど苦しくなく、暑さにも鈍感になっていた。人間も自然界の動物の一員、すぐになれるのだろう。自然とは何と素晴しい。

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