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有名法律家にして空手の達人=イヴェス・ガンドラ・マルチンス=知られざる日系人との絆

 「今でもウマ・ポレガーダ(1インチ、2・54センチ)の板一枚なら叩き割れる」。有名な法律家イヴェス・ガンドラ・マルチンスさん(79、Ives Gandra da Silva Mrtins)は4月15日、手刀の構えをしながら低く響く声で、そう言った。南米金融界の中心であるパウリスタ大通りの一本裏にその法律事務所はあり、入り口すぐのところには「1965年5月15日、ブラジル空手アカデミー赤嶺至冠(しかん)8段から1段を授与」というブラジル空手道剛柔会の免状が飾られている。日本文化関係にゆかりがある人物としてはまったく知られておらず、驚くような言葉から取材は始まった。

 1960年、サンパウロ州立総合大学(USP)法学部を卒業したすぐ後の25歳の時、最初はボクシングをやっていたが、「変わったスポーツをやりたい」と思い立ち「柔術か空手か悩んだ」というが、タバチングエラ街にあった空手アカデミーで習うことにした。当時は普及が始まったばかりだった。
 「この流派ではブラジル初の黒帯だよ」と誇らしげに笑う。空手普及が始まったばかりで、しかも大半が日系青年で、非日系は珍しかった。
 テレビ局から頻繁に呼ばれては、番組の中で形や組手のほか材木、瓦やレンガを割って見せるなどの模範演技をした。「あの頃なら瓦8枚を叩き割った」と懐かしそうな表情を浮かべる。
 「赤嶺先生は50歳を過ぎており、まったくポルトガル語をしゃべらなかった。あの頃は毎日、練習した。番組で見せる演技のために足や腕の骨を折ったこともあった」と思い出す。「でも、その教えからは私の人生にとって学ぶものが多かった。あの頃の友達はほとんどが日系人ばかり。仕事における勤勉さは、赤嶺先生の指導から身についたもの」と当時を振り返る。
 「赤嶺先生は1950年代の初め頃、渡伯した。太平洋戦争で日本軍兵士として戦ったので、ブラジルにも米軍の追手が来るのではないかと彼は恐れていた。空手の生徒に警察官がいたので安心していたが、ある時、生徒の一人がアメリカ人だと分かって精神的に不安定になった。そんな戦争中のトラウマが原因でアカデミアを辞めたと聞いている。戦争の後遺症、精神失調症にみえた。最後までまったくポ語を学ばなかったが、先生としては素晴らしかった。もし日本に残ったなら、有名な空手教師になっただろうが、アカデミーを辞めた数年後に亡くなった」。
 1965年頃に赤嶺師範がアカデミーを辞めたのを受け、自分も身を引いた。赤嶺師範の流れは小坪(こつぼ)剛伯錬士師範が継いだ。「今でも空手の訓練を続けているよ」というマルチンスさんは、現在その流派の「名誉三段指導員」の称号を与えられている。


保守系論客の輝かしい経歴=著作140冊、SPFC評議員会長

 「ドトール・イヴェス」といえば、弁護士にして解放者党(Partido Libertador)党首も務めるなどの政治活動もした人物だ。《軍政前当時で、左派政党から暴力的な迫害を受ける可能性があったが、彼が空手使いであることから、党の仲間は一緒にいることで安心感を覚えた》(雑誌『MASTER』第3号、12頁)とある。
 数々の有名大学の名誉教授にも就任し、保守系論客として知られ、新聞のコラム執筆者にもなっている。その傍ら、法律に限らず文学など140冊以上の著書を発表し、サンパウロ州文学アカデミーのメンバー、クラブ世界一にも輝いた有名なサンパウロサッカークラブ(SPFC)の終身顧問にして元評議員会長など、多彩な経歴を並べ始めるときりがない。
 彼の小説作品の一つ『Um advogado em Brasilia(ブラジリアのある弁護士)』(1964年)では、空手の達人の弁護士が主人公で、誘拐犯に襲われた時に反撃して助かる場面が描かれている。
 病気で指が動かなくなるまで天才ピアニストの名をほしいままにし、現在は指揮者としても著名なジョアン・カルロス・マルチンスの兄弟でもある。また息子のイヴェス・ガンドラ・ダ・シルヴァ・マルチンスは労働最高裁判所の判事だ。

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