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大統領と日本移民の友情=松原家に伝わる安太郎伝=(13)=約束守られないドウラードス=渡伯一月でスト、前代未聞のウナ

開拓初期のリオ・フェーロ植民地の様子(松原家所蔵)

開拓初期のリオ・フェーロ植民地の様子(松原家所蔵)

 戦後移民の第一便は1953年2月、アマゾン移民17家族がリオに到着、同7月7日に松原移民枠でドウラードス植民地に入る22家族112人が入った。3次に分かれ、総計は和歌山県人54家族、岡山県人10家族の64家族だった(人文研年表116頁)。
 リオ・フェーロよりコロニアで知名度が高いのは、「松原植民地」と通称されるドウラードス連邦移住地だ。
 《「ドラードス」というマット・グロッソの一田舎町が有名になったのは、戦後第一回移民が、十余年の空白時代を破って此処の連邦政府の植民地に送られて来たため、コロニアはまるで出征兵を迎える様な熱狂さをもって歓迎し、ノロ線からマ州の各駅々には、旧移民達が萬腔の熱意を示し、新移民達をねぎらい「しっかりやってくれ」と励まして送った~》(『曠野の星』1956年8月号、10頁)とある。
 松原植民地はドウラードスから60キロ、パラグアイとの国境にかなり近い地域だ。国境の町ポンタ・ポランについては《もともとパラグアイの領土であったものが八十八年前の戦争に負けてブラジル領になった》(1957年12月=『曠野の星』第45号、10頁)との記述もある。
 ドウラードス市創立は1935年だが、ヴァルガスは「西への行進」を始めたのと同じ1943年に、ドウラードスからポンタ・ポランに至る地域をポンタ・ポラン連邦区に指定し、47年にMT州に再統合された経緯があり、国境地帯として連邦の意思が強く働いていた地域だ。
 松原移民同様に1950年代、ブラジル各地から移住者が集まり、現在同市は21万人の人口を抱えるまでに発展した。
 松原植民地では連邦政府から一家族30ヘクタールが無償下附され、《道路は政府、山伐り、家建て、井戸掘りは自費である。但し便宜上松原氏が立て替えて請け負わせた》というはずだった。だが「移民が着いたのに家が出来て居なくて四カ月合宿して道路作りをした。一ロッテ二アルケール伐採の契約が出来て居ないために新移民の男は山伐りの手伝いをし家建ても自分でした》(『曠野の星』1956年8月号、21頁)という約束とは異なる状態だった。
 連邦政府が約束通りに道路整備などをしなかったこともあり、松原は入植者に資金を貸付けなどの側面支援をしたが、開拓は困難を極めた。
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 同じ53年の10月5日、バイーア州のウーナ連邦移住地に入植する38家族がイリェウス港に上陸したが、1カ月たたずして移民がストライキを起こし、日本大使館に訴えたことから、現地官憲と大問題になった。この問題は、松原に致命的な大打撃を与えた。
 『曠野の星』(64年4月号)には、こう報告されている。
《一カ月と経たない内に十五家族が罷業(スト)し、10カ条の要求条件を提げて大使館に膝詰談判に行った。
 その時の言葉のやり取りの一説に、移民の側「割り当てられた土地が四十五度から八十度の傾斜を持っており、土壌は不良で豊作の見込みがない。よって生活補助金の増額と営農資金の支給なくては働けない」
 松原氏「地形の悪い事は認める。経済的にやれないなら相談にも乗る。しかし入植して土地に一鍬も入れずに苦情と要求を並べては困る。一年間やってみてくれ、それでダメなら善処もしよう…」と言っている。
 (中略)罷業組十五家族に対しては、フェルナンド所長は日本送還…とまでいきまいたが、マルチンス植民局長の斡旋でミナス州のジャイーバ植民地に転住させる事で結着がつき、問題に終止符を打った》(7~8頁)とある。
 渡伯1カ月の移民がストライキを打って大使館に膝詰談判し、ブラジル官憲の植民局長が激怒して「日本送還」と息巻くとは、まさに前代未聞の出来事だった。(田中詩穂記者、深沢正雪記者補足、つづく)

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