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大統領と日本移民の友情=松原家に伝わる安太郎伝=(12)=シングー公園との隠れた関係=すぐ隣には有名なカッペン

 ヴァルガスは独裁政権時代の1943年、広大な〃未開〃地域だった中西部に道を開いて開拓入植する「西への行進」(Marcha para o Oeste)運動を始めた。

 その過程で大活躍したヴィラス・ボアス兄弟が、〃未開〃と言われた地区には多数の先住部族が住んでいると気付き、彼らの保護区を作るべきだとの構想を提唱するようになった。それが1961年に実現した世界最大規模のシングー・インディオ国立公園だ。

 フェルナンド・ドレア・ダ・コスタMG州知事は当時、それに反発していたようだ。

 グーグルマップで調べてみると、松原のリオ・フェーロ植民地は、まさにシングー国立公園の真横に位置していた。地図左下が州都クイアバ、右上の色が濃い部分はシングー川水系を中心としたインディオ保護区で、そのすぐ左横、そこに注ぎ込む支流リオ・フェーロ沿いにある。

 誰もが入植したがらなかったインディオ居住地近くの土地を、州知事は日本人に52年に与えて前もって開拓させ、将来的に保護区となる地域を狭める意図を持っていたのではないか。

 マリリアの大農場主という以上に〃ヴァルガスの右腕〃として名を馳せていた松原を信用した人々が、土地を購入して入植したが、当時は完全な原始林だった。53年に入った第一陣は、植民地の仮の本拠地となった場所にたどり着くのに、150キロに及ぶ道を造らねばならず、それに3年もかかったという。

 祐子さんは「入植者からは不満の声がたくさん上がっていて、プレッシャーが(大統領の)友人だった彼(松原)に全部かかった。政府からのお金もなかったけど、でも政治的な圧力はなかった。二人が友達だったのは皆知っていたけど、その類の証拠は政府関係の書類には残っていなかったから」と説明する。

 『曠野の星』(1958年2月号)の北部麻州特集があり、祐子さん夫の義和さんは、《二万ヘクタールの面積だが入植最初の人は三年になる。現在入植者は四十七家族だ。カフェ栽植十八万六千本、ゴム栽植十三万七千本、開拓面積八百九十ヘクタール(中略)今のところ売る物が無いので生活費は会社の方で立替えて居る》(9頁)と語っている。

 実はその隣接地には、当時大問題になっていたカッペン植民地があり、同誌では《私は失敗した》との見出しで、カッペン植民地専務・田中治作の体験談が書かれている。米は一俵蒔いて五俵しかとれず、野菜も枯れるので、農業技師に調べさせると酸性土壌(PH4・5~5・5)だと分かった。会社から《三十家族に一千コントスの食糧費の貸付けをしたが、返す見込みが立たないので、半額は会社が損をしてまけてやった》(同誌)とあるから、まったく採算の取れない拓殖事業だった。

 こうしてカッペンからは5年以内に全員が退耕してしまった経験から《「セーラ・アズル」以北は農業に向かない事を知った。アマゾン流域の上流は日本人の入るべきところではない(中略)私は力尽きた。実に大きな失敗、犠牲であったが、しかし之によって(中略)貴重な人柱が立った訳だ。此の体験によって、後進の日本人は私の二の足を踏まない事になるだろう》(11頁)と結論付けた。

 リオ・フェーロのすぐ隣はそんな土地だった。その撤退した後に、何も知らない沖縄戦後移民が送り込まれ、辛酸な体験を繰り返したことは現在では周知のとおりだ。(田中詩穂記者、深沢正雪記者補足、つづく)

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