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パナマを越えて=本間剛夫=97

 待つほどでもなく二人の若い女性が姿を見せ、一人が自分はパウリーナと名乗り、同伴の女性をターニアと紹介した。大使館の中には昼食時で誰もいない。私は面接室に二人を招いて向かい合った。パウリーナはドイツ人といいながら流暢なスペイン語を話した。二人ともアルゼンチン生まれのドイツ系だった。
 私はエスタニスラウがこの町に来たはずだがというと、今朝パラグアイに飛んだという。私は単刀直入に「セニョール・ゲバラはどこですか」と質ねた。
 パラグアイのグループと首領の活動に賛同して行動を共にしているフランスの少壮哲学者ドブレと会ってから、もう一週間ほどでボリビアに入ります。パラグアイの同氏たちはイグアスーの瀧の集落で、こちらの運動を待機しています。ペルーの同士もコチャバンバ付近まで降りて来ている。これで東、南、西からの包囲網が築かれるわ。問題はブラジル……。政変のたびに農民の社会的地位が高まって、過去五十年間、革命運動がなく、ただインフレがひどいことだけですわ。南米で民度の高さではアルゼンチンに次いでウルグアイ、ブラジルでしょう。とにかくボリビアは大陸のまん中にあるのですから、ここから大改革を示しませんとね……。日本は羨ましいわ。アメリカの力を借りたとはいえ、完全に農地は解放されましたものね。ヨーロッパに比べれば、遅かった恨みはありますけど……。
 さすがにパウリーナは頭の冴えを思わせた。
 それから二人がボリビアの国籍をもったのはエスタニスラウの尽力によるものだとつけ加えた。ポーランド系の彼がこの運動の強力な一分子として働くようになった経緯は聞いていない。無邪気な少年時代しか知らない私は理解に苦しんだ。いつかその心の中を訊いて見ようと思った。
 私はこれからも会って話しを聞きたいので頼むというと、二人とも私たちも同じだと交互に私の手を握った。
 会談は三十分ほどで終わった。二人を送り出しながら、「二人で行動を共にするのは危険ではないか」と忠告じみたことをいうと、二人は真剣な眼指しで「解っているわ」と頷いた。
 私は遅くなった昼食をホテルで済まして帰り、早速、東京の伊原氏に今までの経過を日記風に書き送った。

 私はパウリーナがいったドブレなる人物がゲバラとパラグアイで行動をともにしているというのが気になったので、夜になるのを待って彼女のアパートに電話した。
「今日、昼、あなたはドブレのことを話したが、彼はどんな人物なのか。ゲバラさんを危険な革命運動家として知った上で交わっているのか。エスタニスラウも一緒なのか」
 彼女らにとって、私の質問は極めて幼稚なのかも知れないと思いながら訊ねた。
 パウリーナは周囲を警戒している風で、低い声で、時にフランス語と英語を混えて説明してくれた。
「彼はパリ生まれ、高等師範に在学中にキューバを旅行した折、著名なマルクス主義哲学者と会い、それを契機にラテンアメリカ各国を一年間歴訪しています。帰国後、哲学教授の資格をとり、カストロについて論文を書き、六五年からハバナ大学で哲学を講じ、その後メキシコの左翼系出版社の記者としてペルー、パラグアイとこの国の農村を廻って沢山本を書いているの。私たちも彼を信用してるわ」と電話が切れた。

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