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パナマを越えて=本間剛夫=101

 この運動に対してアメリカは既に十余年も前からパナマを基地としてレーンジャー遊撃隊を養成していた。これは南米の国の大小を問わず、各国の青年十名ずつを選んでパナマに集めて高地、ジャングルにおける戦闘要員を訓練していることに対する反発、憎悪だった。この訓練にはレーンジャーの意味するように高所に張ったロープを伝うなどの訓練、ジャングルの警備、監視にあたるものでキューバでも実験ずみだった。
 その頃、ゲバラはアルゼンチンの果実農業の中心メンドサ地方を廻っていた。
 メンドサには私がスペイン語を学んだキリスト教団の経営になる東京の日本力行会海外学校の同期生田代が果樹園を経営しているのを思い出した。ここには十数軒の日本人農家の集団があった。
 私はメンドサに飛ぶことにした。ゲバラに会いたいのは勿論、三十五年ぶりに旧友に会って久闊を叙する楽しみがあったからだ。
 ラパスを発ち、まっすぐ空路を南下して直航すれば十時間の旅程だ。
 時間はもう六時を過ぎて暗かった。空港に降りて警官に尋ねると田代農園はすぐに分った。
 十五分ほどタクシーをとばすと葡萄園に囲まれた大きな構えの邸宅に着いた。田代家だ。
 声をかけるとすぐに扉があいて中年の婦人が顔を見せた。私はハポン(日本)から来たホンマでご主人とは東京の学校の同期だったというと「あなたののお名前は主人から聞いて存じています」と笑頻で招き入れた。
 婦人は原住民らしくうすい褐色をおびた美人だった。椅子を勧めながら寂しそうにいった。学友田代は日本の敗戦を知ってから元気がなくなり、農園は二人の息子に任せていたが二年前に他界したという。
 私は夫人を慰めながら、折角の訪問の甲斐なく、友の最期の心境を推察して眼頭が熱くなった。海外の同胞の間では田代の他界は特異な例ではなかったのだ。ブラジルの同胞社会にも、こんな悲劇がいくつもあったのを知っている。所謂、〈勝ち組、負け組〉の紛争の中で起きたのだった。
 暫くしてから私は夫人に尋ねた。
「革命家ゲバラがこのメンドサにいると聞いて会いたいと思っているが、どこにいるのですか」
 いうのと同時に夫人は「ゲバラさんなら、真夜中ごろに帰ってこられますよ。私のところを宿にして同士を募っておられます」
 意外な返事が返ってきた。
「お宅に?」
 自分ながら頓狂な声だった。なんと言う好運なのだろう。私は日本でゲバラに会ったことがあるというと「それなら今夜、ぜひお会いなさい」と夫人は嬉しそうにいった。
 奥の方から男たちの声が聞こえた。農場で働く農夫たちが夕食に帰って来たのだろうと思っていると、一人の壮年の武装した男が入って来た。夫人とは旧知の間らしく、夫人は「ゲバラさんの友人ロベルトさんです。こちらのハポネス(日本人)は亡くなった主人の学友です」と要領よく紹介してくれた。
 男は手を差しのべて握手したまま、口数が少なく、煙草をくゆらしていた。
 そのうち、下女らしい娘が夕食の支度ができたことを夫人に知らせに顔を見せ私に目礼した。
 男は既に夕食を済ませてきたと断って、私一人が食堂に案内されて夕食を済ました。それから応接間に戻ると、先ほどの男と他に二人の武装した男と話し合っていた。

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