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宿世(すくせ)の縁=松井太郎=(7)

 死に化粧が巧みだったのか、それとも体力をあまり消耗しないうちに死んだので、見たところ十歳もわかくみえ、老婦人のもつ品のよい美しささえあらわしていた。
 けれども太一は一目みたとき、これはもう千恵ではないと思った。蝋のような質料で精巧に作られた人形のようなものに感じた。つまり命のないもの死者ということであった。死とは生者の目の前に闇の幕がおりるということではないか、死者の感覚のすべては消えて無になり永遠の闇にはいってしまうと、太一は日ごろそのようにかんがえている。
 太一はこれが千恵との別れになるという意味で、妻の額に手をおいた。しかし、とくに胸に迫ってくる悲哀はわいてこなかった。かえって、一期一会は夫婦の仲にあってもよいはずなのに、千恵が病んでからもついうかうかと、すごしてきたのが悔やまれるのであった。死者は彼にかかわるすべての存在とともに、永遠の忘却、絶対の無になるのだから、そこには喜怒哀楽もないわけだが、かえって残された者が辛い余生をおくらなければならないだろう。見送った者もまた見送られるのは、人生のさだめだが、太一は千恵のいった路の跡をやがてゆくのだとおもうと、そう恐れることもないとも考えた。
 このような感慨はわずかの間、太一の脳裏にすぎたもので、死者を前にしてふかい瞑想から得たものではない、埋葬の時刻は決められてあり、つぎつぎと焼香をまっている人たちが列にならんでいた。
 千恵の埋葬はすみ、太一の帰宅した刻はもう夜になっていた。到着にいくらかの差はあったが、縁者がそろったところで軽い夕食になった。七日忌の法要の取り決めなどすましてそれぞれに帰っていった。
 息子夫婦は部屋にこもってしまい、孫たちも物音ひとつ立てないでいる。母と共に苦労した丈二の心痛のほどは、太一も察するが当分のうちは千恵のことにはふれないでおこうと思った。
 けれども、太一にはそんなわけにはいかないだろう。千恵の発病、入院、一時帰宅そして容態の急変で救急病院への搬入、わずか二日の経過で死んだ。干恵の疾患は急坂をころげおちる石塊のように慌ただしかった。そして彼女の命の根を絶ってとまった。
 千恵の死について、太一はーもしやーという懸念はあったものの、そのような不吉な予想は考えたくはなかったし、なるべく意識しないようにしていた。
 過去に奥地にいた頃、千恵はとっぜんの流産で出血がとまらず、イタリア人の精米所の車で町まで走ってもらったことがあった。あの時の状態はこのたびの吐血どころではなかった。また屠殺した豚の内蔵を彼女が処理したのち、腕がだるいと言うので太一がしらべると、血管は赤くはれて腕をのぼってゆくようすなので、その時もすぐ医者にはしってゆき、ワクチンを打って、危ないところをのがれている。その他にも、千恵の予感で背筋の寒くなるような危機をはずしたこともあって、太一は妻の運勢の強いのを、理由もなく信じていたのは、日頃、彼が口にする哲学うんぬんとは理にあわないのであった。折にふれ自分の死については考える太一も、妻の死を予想できなかったのは迂闊で、入院の翌日見舞いにいっておれば、言いたいことのひとつも聞いてやれたのにという悔いを、太一は生涯にわたってもつことになるだろう。
 太一は夫婦の部屋にこもり、寝台の縁に腰をおろして、まとまりのない考えにふけった。

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