ホーム | 文芸 | 読者寄稿 | 日本とチリ、海を通じる結びつき(1)=チリ・サンティアゴ在住 吉村維弘央(いくお)

日本とチリ、海を通じる結びつき(1)=チリ・サンティアゴ在住 吉村維弘央(いくお)

 第65期海上自衛隊幹部候補生過程終了、約170名を乗せた練習艦隊が北、中、南米12ケ国16港を160日掛け航海距離数5万4千kmの旅をするべく、さる5月21日、日本を出港した。
 今回の練習艦隊の旅は1957年海上自衛隊練習艦艇部隊として練習隊群が編成されてから第59回目に当たるらしいし、今回は訪問国の数も多く、艦隊も練習艦「かしま」「しまゆき」、護衛艦「やまぎり」の3隻編成とかで、時代の流れに沿ってだんだんと遠征規模が大きくなっていくのは何となく嬉しい。
 北半球に位置する日本と南米大陸の下の方で太平洋を隔て、日本から見てほぼ足の下の方に位置するここチリは、距離的にも遠い国の一つではあるが、1960年、2010年、2014年とここ半世紀の間でも既に3回チリ沖で発生した地震により引き起こされた津波が1万7千kmもの距離を平均時速750kmで日本に到達し、吃驚するほど大きな被害をもたらしているので、両国はある意味では非常に近い国ということもできそうだ。
 この両国の海上を近世に到り最初に結んだのが、日本帝国海軍の有力艦の一つであった装甲コルベット『龍驤』(りゅうじょう、艦質木製、排水量2530トン、800馬力。明治3年、1870年―熊本藩より日本帝国海軍に献納されたもの)であった。
 この事実は日本と南米が日本の軍艦により最初に結ばれたという歴史的にも興味を引くことでもあり、これを史実に照らして記してみたい。
 明治15(1882)年6月6日伊藤裕亨(いとう・すけゆき)は海軍大佐に任ぜられると同時に龍驤艦長に任命され、同年12月6日海軍卿川村純義(かわむら・すみよし)より凡そ次のような訓令を受けた。(現代文に意訳。原文は末尾に掲載)
○海軍生徒の実地演習を目的に龍驤艦を南アメリカ西海岸に出航させる。 
○航路はニュージーランド国ウエリントン及びチリ国バルパライソを経てペルー国カヤオより北米ホノルルを経て帰航とする
○航海は、出入港並びに避難等の緊急止むを得ない場合のみ蒸気機関の使用を認めるが、生徒訓練の為、風帆航行を優先とする。
○日没前に、常にトップスルーを1リーフ短くすること。
○各予定停泊港の滞在は2週間を過ぎないこと。
○航海中緊急事態で予定以外の港に寄らざるを得ない場合でも、滞在は一週間を限度とし、明治16(1883)年7月中旬迄には戻ること。
 伊藤裕亨龍驤艦長はこの訓令に基づき、遠洋航海に伴う諸準備を完了し、明治15(1882)年12月19日品川港を出て51日目の1883年2月8日、航行距離5704海里を経て最初の目的地ニュージーランド、ウエリントン港に到着した。
 日本帝国海軍所属船がウエリントン港に入港するのはこの龍驤艦が史上始めてでもあり、伊藤艦長はウエリントン港並びに同港に続く陸上の状況等を具さに調査して、本省に報告している。(詳細割愛する)
 ウエリントン港停泊中、偶々、2月14日ワイノーヨーマタトンネル開通式が挙行され、伊藤艦長以下士官達がこの祝典に招待され、伊藤艦長は祝辞を読み喝采を浴びた。
 その後、士官達はウエリントンの上層階級の人々が属するクラブに招待された。この招待に対する返礼の意味を込め、伊藤艦長はその地の紳士淑女200名以上を艦内に招待し、乗組員の銃剣操練を始め3番叟の舞を含める演技を見せ、花火を上げるなどの見せ場を作り、招待客の笑と共に和やかな一夜を過ごした。大筒を使っての花火の打ち上げは、浪静かな港に景観を添え、夜空を彩る月の輝きを受けて、船上に招待された客と共に、港沿岸につながるその他の船舶やら岸壁に集まった衆人の喝采の声が大きくこだましたと記載されている。
 これらの諸行事をこなし、2月24日龍驤艦はウエリントンを後にして、チリ国バルパライソを目指した。

image_print