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終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第9回=二世公証翻訳人Yとは誰か

暁星勤労裁縫学校の1960年度卒業生の記念写真(前列中央が岸本)

暁星勤労裁縫学校の1960年度卒業生の記念写真(前列中央が岸本)

 53年10月の国外追放裁判の第2審で無罪判決が下された後、《これで事件は完了していたものと思っていたところ、「貴下の帰化権が剥奪されることになつたから、至急異議申し立ての手続きをしなければならない」との知らせが弁護士からあった。これこそ全くの晴天の霹靂である。(中略)一片の予告、一言の抗弁の余地もなく、本人の全然知らない間に『帰化権剥奪』の発表にはただ唖然たらざるを得なかった次第だ》(『蕃地』473頁)という驚くべき展開が待ち受けていた。
 《日本人の一部の策動によって、日系二世の一公証翻訳人が、四十余頁に亘る厖大な翻訳文をリオの司法大臣に送った。之が為に無罪の署名をするところまで漕ぎ付けたのに形勢は逆転し、「再審議の必要有り」とし、サンパウロ州裁判所の方に回送されてしまった。
 この日系二世の公証翻訳人の頭文字は「Y」だと『蛮地』476頁に書かれている。いったい誰なのか――。
 《私の立場を危地に陥れたのは翻訳である。文章の中に流れている真の精神が何であるかをとらず、単に数行の句節だけを所々訳出し、しかもある箇所には、訳者が自分勝手な註釈をつけて、著者の立場を不利に落とし入れんとする文章を列ねて警察に提出したため、予想だにしなかった「国外追放」の危難が加えられた~》(『蕃地』487頁)という状態だった。
 57年の最終判決文によれば、公判を通じて岸本の帰化ブラジル人としての真摯な生活態度、6人のブラジル籍子弟の父親として、キリスト者としての潔癖な人格が認められ、裁判書類には《国家の治安を乱すとの訴えとは異なり、この本はサンパウロの日本移民に関する体験記述型の歴史書》と最終的に認識され、「警察による翻訳には重大な欠陥が認められる」と指摘し、「無罪判決を下す」と書かれている。
 Yの意図的な翻訳によって〃国家の危険〃として仕立て上げられたことを、連邦裁判所が認めたといえそうだ。誰が岸本を追い詰めたか―を知る鍵がYにありそうだ。
 『四十年史』(香山六郎編著、49年)によれば「日本人初の日伯両語公証翻訳人」は1923年に合格した粟津金六だ。57年3月12日付けサンパウロ州官報7頁にその時点の翻訳人名簿があった。その試験は「20年に一度」と言われる希なもの。戦後最初の試験は61年であり、57年の名簿なら岸本裁判時と同じメンバーのはずだ。
 スウェーデン領事館の日本権益部担当で、DOSPで頻繁に通訳を務めていた森田芳一(よしかず)が「Y」ではないか―と指摘する声もあるが、少なくともこの時点で公証翻訳人資格はもっていない。
 公証翻訳人106人中、日本語は13人だ。うち頭文字が「Y」になのは2人。「田村幸男ワルテル」と、『戦野』批判を最初に出したパ紙ポ語欄担当者の「山城ジョゼ」だけだ。とはいえ断定はできない。(つづく、深沢正雪記者)

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