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野村さんの遺族いずこに=勝ち負け抗争で犠牲=取材記者、月末に来聖

野村忠三郎さん(『在伯日本人先駆者伝』、パ紙、1955年)

野村忠三郎さん(『在伯日本人先駆者伝』、パ紙、1955年)

 戦後のブラジル日系社会を震撼させた勝ち組負け組抗争事件の取材を続ける日本人ジャーナリストが今月末に来聖し、関係者へのインタビューを試みる。一連の事件の発生から来年で70年の節目。現代の日本社会では事件の存在はおろか、日本政府が海外移住を国策として推奨した時代があったことすら知らない世代が増えている。「戦争と移民は切り離せない。その象徴が勝ち組負け組抗争ともいえる。事件を通じて今の世に問うものが見いだせるはずだ」と、老境の域に達した関係者の再発掘に挑む。
 このジャーナリストは名波正晴氏(52)。2011年まで共同通信リオ特派員として中南米各地を取材。08年の移住100周年の際には事件の関係者を取材して以来、ライフワークとして抗争の歴史的な背景の調査や関係者へのインタビューを重ねている。
 今回、同氏が消息を探しているのは、昭和21(1946)年4月1月にサンパウロ市で襲撃された野村忠三郎さんのご遺族。当時、勝ち組青年5人がジャバクアラ区の自宅に侵入し銃撃、野村さんは絶命した。享年47。後にサンパウロ事件といわれた事件の最初の犠牲者となった。
 野村さんは明治31(1898)年11月、長野県上伊那郡飯島村(現飯島町)に生まれ、大正7(1918)年日本力行会に入り、同年の若狭丸で渡伯。サンパウロ市郊外コチアでのイモ作りや植民地の日本語教師などを経て日伯新聞入社。編集長として健筆を振るい、文教普及会事務長の要職に就き、コロニアの重鎮的な存在だった。
 終戦後、時局認識をめぐる日系社会の混乱は時間の経過とともに深まり、昭和20(1945)年10月、当時のコロニアの指導者らが組織的な時局認識運動の開始を決定。その際、日本から届いた天皇の詔勅と当時の東郷外相のメッセージを日本語訳し、コチア産業組合に集まった青年有志らに配り、終戦に関する状況を説明した。これが日本の戦勝を確信していた勝ち組の反発を買い、対立を決定づけるという皮肉な結果となった。
 野村さんは、この青年有志との懇談会で司会を務め、詔勅を涙ながらに読み上げた。詔勅には「伝達趣意書」が添えられ、これに署名した指導者7人が後に勝ち組の標的にもなった。
 名波氏は数年前、野村さん事件に関与した5人のうち、当時生存していた1人から直接話を聞いた。この人物は事件に至る動機を説明し「野村先生は個人的には大変尊敬していた。ご家族には本当に申し訳ないことをした」と語った。
 名波氏は「当事者双方から話しを聞くのが取材の基本。ご遺族には複雑な気持ちもあると思うが、事件の全体像の把握には直接取材は不可欠。是非ともインタビューに応じていただきたい」と話す。同氏は今月25日から12月上旬までサンパウロ市とサンパウロ州奥地に滞在する。
 野村さんの子孫の連絡先をご存知の方は、本紙編集部(深沢、電話=11・3340・6060)まで連絡を。

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