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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(63)

 直訴状の内容は、ポ語文で抽象的な表現が多く判りにくい。が、要するに襲撃事件に関し、臣聯の無実を主張、警察が聯盟員に加えた虐待、拷問その他の迫害を告発、かつブロクラシア=お役所仕事=排除を訴えている。
 そのブロクラシアとは事件後、警察が自分たちから取り上げた身分証明書などを返さず、外務省もそういう事情を理解してくれないため、日本への帰国手続きが一向に進まない、といった類いのことである。
 直訴状は1958年、最高裁長官に出した後、三代の大統領に渡って送り続けた。が、ラチが明かなかった。歳月のみが過ぎて行った。


土屋パウロ氏談

 話の筋は一寸それる。
 現在、ロンドリーナ市で公証翻訳人をしている土屋パウロさんは、子供の頃、アサイに住んでいた。母親は公民学園の先生をしており、父親は谷田の製材所で働いていた。
 公民学園は日本語だけだった……という話はすでに記したが、土屋さんの母親が谷田を説得、ある時期からポ語の授業も始めたという。日本への帰国がいつのことになるか判らぬ以上、止むを得ないという判断であったろう。
 谷田は製材所のほか、農機具の販売・修理店、ガソリン・ポストなども営んでいた。製材所の傍の大きな家に住み、子供は結婚後も周囲に住ませた。食事も一緒で、中華料理店によくある丸い回転式の食卓を、皆が囲んだ。お爺ちゃん=谷田=が着席しなければ、誰も食べなかった。家族の人数が多い上、従業員の一部も一緒だったので、何度かに分けて食べた。大人がまず食べ、次が子供……という順序だった。
 谷田は息子7人、娘3人という子沢山で、孫は彼が71歳の時46人いた。
 その娘さんの一人に筆者は会ったが「父親のことは話したくない」と言う。個性の強すぎる父親には、こういう子供も現れるものである。


ネネの日本語

 やはり土屋パウロさんから聞いた話であるが──。
 谷田才次郎の自宅や仕事場、その周辺は、日本語中心の社会だった。ためにブラジル人の従業員やその子供の中には、日本語を流暢に話す者が何人もいた。
 ネネという愛称で呼ばれる従業員がいた。ある時、そのネネがお客(日本人)の家へ集金に行った。先方に着くと、子供が出てきてポ語で用件を聞き、奥に居る父親に向かって日本語で伝えた。
 「谷田さんから、お金取りに来たヨ」
 父親が別の(日本語の判らない)従業員だと勘違いして、こう答えた。
 「今日は居ない、と断っとけ」
 子供が、慌て気味に制した。
 「駄目だヨ、ネネが来ているから」
 ネネが奥に向かって、声高に、こう言った。
「○○さん、聞こえていますヨ~」


歳月と共に…

 谷田才次郎の臣聯の(精神や計画の)継承事業は、歳月と共に消えて行った。
 谷田自身は最期まで、信念を変えずにいた。しかし、その周辺(例えば地元の聯盟員たち)は、次第に祖国の敗戦に気づくようになった。負けたとなれば、大東亜建設の翼賛という目的も帰国計画も、空回りしてしまう。谷田式の子弟教育も意味を失う。
 公民学園は1968、9年まで続いたが、生徒も先生も数が不足するようになり、閉校した。やがて谷田も鬼籍に入った。これで総ては終った。

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