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県連故郷巡り(北東伯編)=歴史の玉手箱=第6回=親の借金返済に南米デカセギ

気品あふれる藤田ルジアさん

気品あふれる藤田ルジアさん

 藤田十作日本庭園を2012年に訪れ、その存在を最初に記者に教えてくれたのは、元文協会長の山内淳さんだった。
 彼からその時に受け取った資料によれば、フォルタレーザ市で発行されている新聞「オ・ポーボ」紙1966年1月18日号は同市に移り住んだ外国人家族の連続レポートの特集を組み、その第1弾として藤田十作を報じていた。
 それは、ルジアさんの話と微妙に食い違う。同紙によれば藤田は1893年生まれだが、死亡時の年齢に確信を持つ娘の説(1890年生まれ)方が正しいだろう。
 ルジアさんもカピトンも「ジュウサク」の漢字が分からなかったが、県連職員の伊東信比古さんからもらった『アグロ・ナッセンテ』誌のコピーには《一九二二年に、ペルーからアンデスの峰を越え、ボリヴィアを経てセアラ―州のフォルタレーザに移住した、熊本県八代市出身の藤田十作さん》との記述があり、それに従うことにした。
 ポーボ紙によれば、家長が借金を残して行方不明になり、藤田家の土地が差し押さえられ、経済的危機に直面していた。居間に集まった母、4人の息子と二人の娘、親戚が緊迫した話会いをした結果、「長男を送り出して稼がせ、借金を返済する」ことが決断され、《まだ15歳だった十作が1908年にペルーへ送りだされた》と同紙にあるが、おそらくルジア説の18歳が正しい。
 ポーボ紙の記事の最後には《ギレルメ・フジタはもう繁栄を成しとげた成功者で、穏やかな生活を送っている。日本に残った実家のことは片時も忘れたことはなく、何年か前、本人が遺産相続するはずの土地を贈与して、ようやく差し押さえを親戚に返済できたと語った》とある。
 ポーボ紙から分かることは、父親が親戚から金を借りていたが、返せなくなって蒸発した。親戚は借金のカタに藤田家の土地を差し押さえたという図式だ。それを返済するために長男の十作が一人南米に旅立った。当時の移民には往々にしてある事情とはいえ、大変な覚悟が必要だったに違いない。
 1912年にはペルーのチンタ・アルタ市で小さなレストランを開くほどの資金を貯め、土地を取り戻すための日本への送金を始めた。第1次大戦が始まって不況となり、レストランは倒産。最後の100クルゼイロ程度のお金を手にボリビアへ転住し、3人の共同経営者と共にホテルを購入して生活を賄った。《わずかな貯金ではあったが、その一部は必ず、実家へ送金していた。家族が恋しく心痛む孤独な夜は、幼いころのことを思い出しながら過ごした》とある。
 そのボリビアも経済危機に陥り、商売も立ち行かなくなり、この国ではもう外国人にチャンスはないと決断し、ブラジルへ再転住を決意した。(つづく、深沢正雪記者)

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