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日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(21)

第7章  原爆投下の知らせ

 第二次大戦が激化し、ブラジルの陸軍や空軍の兵士がヨーロッパ前線に送られることになった。またブラジル政府は枢軸国に属する囚人たちをリオ州、イーリャ・グランデの島にある拘置所に移した。そのころ、リオ州はブラジルの首都であった。このような状況のなか、日本人もまた同島に移されていた。
 かくして、一九四〇年より、イーリャ・グランデの島にある連邦政府の農業集落として知られていたドイス・リオスの刑務所は政治犯も拘留することになった。リオ州の刑務所が囚人を受け入れるようになったのは、フェルナンド・デ・ノロニャがアメリカの空軍、並びに海軍基地になったため、この島に拘留されることになっていた現行の政治犯受け入れを、リオ州に移管したためであった。
 イーリャ・グランデの刑務所で兵譽は消防士のセバスチオン・ラウヂノ・フェレイラと知り合った。セバスチオンはブラジル外務省のイタマラチにも勤務しこともあったが、軍部を巻き込んだ新政権への反対運動に巻き込まれて囚われの身となっていた。
 セバスチオンは褐色の肌をした背の高いおしゃべりで陽気な男だった。彼は数多くの反乱に同志といっしょに参加し、政治活動を行う権利を剥奪され、消防署の指揮官という職も奪われ、除名されていた。
 自由の身になったセバスチオンは後に法廷で戦い、一九六九年にイタマラチの職員としての権利が認められていた。セバスチオンは結婚していたが子どもとはなく、ドゥケ・デ・カシアス市の両親の家に妹と住んでいた。ある日、そのセバスチオンが家族の写真を何枚か兵譽に見せてくれた。
 「見てくれよ。これが家族中が集まった時のものさ。よく覚えていないけど、誰かの誕生祝だったと思うんだ…」
 セバスチオンの妹の姿が兵譽の心を引いた。妹のアパレシダ・マリアはショートカットの小柄な女の子で顔いっぱいに笑みを浮かべていた。内向的な兵譽だったが、いつの間にかブラジル人のような人懐っこさを身につけ、セバスチオンを「クニャード」(義兄さん)と呼ぶようになっていた。
 イーリャ・グランデの拘置所には幾つかの特筆すべきことがあった。潮が満ちてくると海水が鉄格子の中側まで入り込んできて、囚人は壁の隅に寄りかかり立ったまま夜を過ごさなければならなかった。
 しかし、良いこともあった。畑を耕す合間に行う「日光浴」だった。看守が銃をもってガードしながら囚人を塀の外に連れ出し、真っ白な美しい砂浜で潮風に当たりながら、運動することができたのである。
 兵譽はリオ州が大好きになっていた。気温が40℃にもなる灼熱の地ではあったが、その暑さにも慣れてきた。そんな折、サンパウロの拘置所に戻されるという連絡を受けた。
 逮捕される政治犯の数が多いのでイーリャ・グランデの拘置所は手狭になり、管理当局は囚人の移転を考慮していたのだ。
 一九四五年四月十四日付けの官報で、サンパウロ州の政治社会治安局長のヴェナンシオ・アイレスは、杉俣政次郎、居城半藏、西山武雄、安保キタロ、平兵譽、日下部雄悟の受け入れを受理している。しかし、囚人の一人を巻き込んだ事件がおき、この移転はまだまだ先の話となった。
 一九四五年一月三日付けで、サンパウロ市南部のヴィラ・クレメンチーノにある聖フランシスコ・デ・アシス教会のボニファシオ・ヅックス修道僧が、ヴェナンシオ・アイレス局長に宛てて手紙を書いていた。
 その手紙には、ヴィラ・マスコッチにあるヴィセンチナ福祉病院に入院している肺病患者が二年前にイーリャ・グランデの拘置所に連れて行かれた夫の日下部雄悟の安否を気遣っていることがしたためられていた。
 修道僧はさらに、日下部が妻を見舞うことを許可してほしいと要請していた。ブラジル在住の日系人を援護することで知られているボニファシオ僧に、署長は事務的な返事を書くことにした。
 サンパウロ州のロゴマーク入りの用紙に日下部は最高軍事裁判所で、国家治安法を犯したとして、八年の実刑が確定していることを説明し、裁判記録の番号2.564、並びに刑が勧告された日付一九四三年三月三日日とタイプライターで打ち、最後に手書きで「不可」と書いた。

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