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日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(38)

 リンコンとエリザベッチは彼女の母親が住むベルフォルド・ロッショの家に移り住むことになった。ベルフォルド・ロッショはドゥッケ・デ・カシアスの隣町である。そして、何カ月か後に二人は離婚した。その同じ頃、エリオの未亡人となったアダルジザは苦労して建てた自分の家に住むためにベルフォルド・ロッショに引っ越した。しかし、その前に、彼女は兵譽(へいたか)の老齢年金をブラジル政府に申請するために手伝った。年金は最低賃金である。
 兵譽は他に住む家がないにもかかわらず、家を売ってしまった。彼が生活苦のためにそうしたのなら分かるのだが、そのようなこともなかった。
 結局のところ、遺産を残したくなかったのであろう。長男は死に、次男は兵譽の反対を押し切って、最初の妻と別れてしまった。彼は、買い主が月賦を全部払い終えるまで自分の家に住んでいた。
 その後は、アダルジザとアドリアナが住んでいた家の片隅に住みに行った。兵譽は孤立した人間になっていった。彼のただ一つの気晴らしは散歩だった。
 彼はワイシャツを着て、テルガルのズボンをはき、黒い靴を履いて出かけていた。電車に乗り、リオの町に出かけていた。そこで、彼は長い海岸線を歩いていた。海で泳ぐことはしなかった。ただ、黙々と歩いていた。たまに靴を脱ぎ、砂浜を歩いたりしていた。
 平日でも、世界に知られたイパネマ、コパカバナ、レブロンといった海岸では大勢の人々が日光浴をしていた。何の心配もないかのように横たわって、肌を焼いている人々を兵譽は眺めていた。
 また、波を勢いよく潜り抜けている人々も眺めることができる。海岸通りの道路では、満員バスや猛スピードの乗用車が走っていた。彼のようにズボンに革靴といった姿の人もいて、裸同様の水着を纏っている人々とは対照的だった。
 兵譽にとって、砂浜を歩くことはセラピーになっていた。彼は砂浜を歩くことが体に良いと信じていた。歩く度に砂に足をとられ、歩行を困難にする砂浜が好きだった。風に飛ばされて様変わりし、決して根付くことがない砂。いつも形を変えている砂山…。
 兵譽は年金生活に甘んじ、息子の嫁の土地に情けで住ましてもらい、同地に根付くことを余儀なくされ、一人では何も決められないようになっていた。月に一度、リオ州立銀行に出向き、年金を引き出していた。年金を引き出す時は、口座を消されてしまわないように、何銭かのお金を残しておくことも忘れずに行っていた。
 銀行口座がないと社会福祉の年金ももらえなくなるからだ。お金を手に途中で店により、米、じゃが芋、油、砂糖や幾つかの日常生活に必要な品々を買い、他はリオ行きの電車賃に残しておいた。 
 リオの海岸通りを散歩するようになって、彼がいかに世間に背を向けた生活をしていたかを思い知らされた。何故、ポン・デ・アスカルに登ろうという興味が湧かなかったのか、また、コルコヴァードの山に登り、観光客がするように両手を広げたキリスト像を写真に撮ろうとしなかったのかと考えるようになった。
 彼は一九八四年に、その当時、リオの州知事だったブリゾラによって創設されたサンボドロモがどこにあるかさえ知らなかった。若い頃、自分の考えの赴くまま好きなことをしていた活動家の彼が、である。
 現実は、彼がモンテヴィデオ丸から降り立つと同時に全身全霊をもって恨んだ国から、毎月生きるための補助金を受け取る身となっていた。自分自身の体が思うように動かなくなると、それを受け止めることに抵抗を感じるようになる。彼の孤独癖は強まるばかりだった。門の所で話し込んでいた古くからの友人や息子にも会うことを拒むようになっていた。ただ、アダルジザとアドリアナとは話していた。
 孤独癖の中には、人生の負け犬となり、全ての人々からその存在を忘れてほしいと願う者がいる。兵譽は妻のマリア・アパレシダや長男のエリオとの死別、父親から遠ざかって行った末っ子のリンコンとの別離を悲しんでいた。彼は決して良い父親ではなく、息子を放置したように自由に育てたのが間違った育て方だったと思い始めていた。
 彼は、肺を患い、一九八九年、昭和天皇と同じ年に亡くなった。彼の遺体は市営墓地、ノッサ・セニョラ・ダス・グラサス、またの名をタンケ・デ・アニルと呼ばれる墓地に埋葬された。

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